主は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。
箴言16:7
今日はこの御言葉に心が留まりました。
ルカ6:27の御言葉を思い出します。
「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」
これって本当に難しいです。
しかし、今日の御言葉を読んで、…そうなんだ~と思いました。
主が「私たちの行いを喜ぶ時」
私が敵だと思っている人とも和解の道を整えられる…
「敵を愛する」というのは
人間には不可能なのです。
敵は憎むもの。だって敵だから…
しかし、主の価値観は違うのです。
敵は愛するもの…なのです。
私たちと主の価値観・常識が正反対になっています。
私たちがいくら「そんな事出来ないよ‼」と苦情を言ったとしても、
主が正解なのです。
今日の御言葉にヒントがあるように思いました。
私たちは敵に対して「愛」ではなく「憎しみ」を持ってしまいます。
自分の努力で、憎しみを愛に変換できないです。
変換できるとしたら、私の能力以上の力が働かないと不可能です。
…多くのクリスチャンは、主を知らない時、求道中の時
「自分にこの神は必要だろうか?」
「キリストが本当の神だろうか?」
「本当の神がいるなら、どうして自分はこの様な大きな傷をもっているんだろう」
「平和の神がいるなら、どうして戦争が起こるんだろう…」
沢山の「どうして」「なぜ」という思いがあったと思います。
しかし、思い出して下さい。
主を信じよう…!と思った時、
どうして戦争が起こるんだろうか?という問いの答えはもらえなかったはず。
沢山の「どうして」「なぜ」に対する答えは、未解決があったはず。
でも、何故か分からないけれど、
主を信じたい…‼ 神の子となりたい‼
という思いが生じ、喜びに満たされたと思います。
それは、主が私たちの心を触れられたから…。
敵を愛する事…
主が、私の心を変えられたら…出来ると思います。
主が、私の心に触れて下さったら…出来ると思います。
…今日の御言葉を読むと
主は「人の行い」を喜ぶ時とあります。
主が喜ばれる人の行い…
ここでは慈善活動、社会貢献を指している訳ではないと思います。
コロサイ3:23には
「何をするにしても人に対してではなく、主に対してするように、心掛けなさい」とあります。
今、自分が置かれている場所。
家庭や職場、学校… これらは主によって遣わされた場所。
与えられた場所で、どのような心で過ごし、働くか。
文句を言われない程度に働くのか。
仕方なしに働くのか。
主に仕えるように働くのか。
「主に対してするように、心掛けなさい」とあります。
主に対してするように、しなさい‼ではないのです。
心掛けなさい…と言われています。
感謝な思いで心掛け、主に喜ばれようとする姿こそが、
主が喜ばれる「人の行い」なんだと思います。
…私には自分の力で出来ない事が沢山あります。
今、本当に自分には本当に愛がない。
イエスさまは本当に凄い…といつも感じる事が多いです。
学校の問題においても、
不誠実、本当に教育者なんだろうか?と言いたくなる時があります。
また働いている病院でも
横柄な態度をとる人が本当に多いのです。
最近、病院に「威圧的な態度を取らないで下さい」と書かれている病院があります。
働いている病院には、その様な表示がありませんが、
私は書いて欲しいと思っています…。
「ワシは客だぞ!」と色々な事を要求されます。
病院には常に、暴言を吐く患者さんがいます。手を出す人もいます。
怖さを感じる事が多いです。
その度に、看護師さんの神経はすり減っているのを感じます。
私は、イエスさまが十字架を背負い
罪人の為に歩かれた時、
群衆が暴言を吐いている姿を感じます。
イエスさまは「もう…勝手にしろ!」と、さじを投げなかったのです。
今からご自分がされようとする事が
どういう意味を持つものなのか…
知らずに暴言を吐き、唾をかけていた群衆。
私は、暴言を吐かれたり、
おしっこをかけられた事はありますが、
唾をかけられた事はありません。
私は、そのような患者さんに対して、素直に腹が立ちます。
その度に、イエスさまの十字架を背負った姿が
思い出されるのです。
主がされたように、私もしよう…
主よ。助けて下さい。私の心に触れて下さい。
私の思いを変えれるのは主だけなのです。
と祈るしか方法はない…。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)