信仰を持ち続ける原動力【Ⅰコリント3:10-11】

2024年

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

Ⅰコリント3:10-11

会う度に「もう…本当に大変なの!」と言う

クリスチャンの知り合いAさんがいます。

そして、ずっと信仰は不安定…

すっごく恵まれてる!という時もあれば、

もう…最悪…神様いないのかな…という事も多い💦

どうして信仰って揺れるんだろう…と考えました。

Aさんに「どうして教会に行くようになったの?」と聞いたら

「友達に誘われていくようになった」そうです。

「どうしてイエスさまを信じるようになったの?」と聞いたら

「え~ 牧師先生に勧められて…。あーちょうど凄く悩んでいる時だったんだけど、祈って解決もしたし…かな~」

という回答。

それで何となく思ったのです。

「信仰を持つことになった動機」と

「信仰を持ち続ける原動力」は違うのではないか…?

信仰を持つ事になった動機、きっかけは、人それぞれだと思います。

もしかしたら、クリスチャンホームだったかもしれないし、

友達が教会に通ってるからとか、

教会の人は親切だから…とか

病が癒されたから、

問題が解決されたから、

何となく自分の居場所となっている…とか

これらは、教会に通うきっかけになったり、

信仰を持つ動機となる可能性があります。

しかし、この動機だけでずっと信仰を持ち続ける事は難しい…

何故なら、

クリスチャンホームだからという事で自分の神ではないから

教会に通う友達とずっと良い関係を保てるかどうか分からず、

また友達が通わなくなると自分も通わなくなる可能性があります。

教会の人、全てが自分が親切な人だと感じない可能性も大いにあります。

教会には色々な人が通っています。

再び病に悩まされたら、信仰は揺れます。

問題は人生で何度も体験します。

その中でな祈っても答えを得れないと感じる事は多いはず。

教会が、常に自分にあう居場所にならない可能性もあります。

動機が、信仰を持ち続ける原動力にはならないように思います。

動機がどうであれ、教会に導かれると言うのは祝福。

しかし、信仰を持ち続ける為には、

それとは別の原動力となるものが必要な気がします。

祈りに答えられるから、

私たちは主を信じるのではなく、

願いをかなえてくれるから、

私たちは主を信じるのではない。

主は主なのです。

私たちの祈りを叶えようが叶えまいが…主は主。

だから、私たちは「主がどのようなお方なのか」という点で

信仰を固めるべきなんだと思います。

主はどの様なお方なのでしょうか。

私は、無条件で主が愛されているのです。

私を救おうと十字架にまでかかって下さったのです。

それだけでなく、聖書を通して主がどういったお方なのか、

どのような教えをされているのか

沢山書かれているのです。

それを一つずつ、信仰の土台にして行く事により、

信仰の揺れがなくなって来ると思いました。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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