まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
Ⅰコリント2:9
自分に「限界」を感じる事はないですか?
思い描く信仰生活を送れていない…
信仰の起伏が激しい…
直ぐに罪の誘惑に負けてしまう…
自信をもってクリスチャンだと言えない…
主への信頼や確信が揺れ動く…
自分には足らないものが多い…
過去に大きな罪がある…
この様に感じる事はないでしょうか?
何となく、自分はダメなんじゃないかと思う。
神の子のはずなのに…
本当に、自分も神の子だと言えるんだろうか。
自分はクリスチャンらしくない。
ダメだと分かっていても同じ罪を繰り返してしまう弱い者。
きっと、神さまは自分を見て残念に思われている様な気がする。
このような、何か抜け出せない思いはないでしょうか?
どうすればいいのでしょうか。
このような「私なんて…」という思い…
時々、クリスチャンの方から相談されます。
多分…沢山の人の心にあるように思います。
その度に思うことは、
「今はそうかもしれない」と思うのです。
私はダメかも知れない…と今はそう思っているだけです。
私は罪の誘惑に弱い…と今はそう思っているだけです。
私たちは「有限」ではない存在。
「有限」でないということは「無限」ではないのです。
「有限」でないということは「限界」があるという事。
私たちには限界があって。当たり前なのです。
思うようにできなくて当たり前。
しかし、私たちの主は「有限」であり「限界」がないお方。
私たちの「限界」を簡単に超える事が出来るのです。
そう思うと、
パウロを思い出します。
パウロは、キリスト教会にとって、単なる反対派ではなく
本当に最悪な存在…
キリスト教徒を迫害し、拷問し、殺害していたのですから。
クリスチャンの私たちから見て、
神の子とは正反対の位置にいたのです。
一般の人が犯してしまうような罪とはレベルが違う。
キリスト教の視点で見て、
パウロは裁かれ、地獄へ行くべき立場だと思います。
多くのキリスト者を迫害したのですから。
しかし、主はこの様な「最悪な限界」をも
遥かに超えて来られたのです。
パウロは救われただけでなく、
歴史に残るほど大きく用いられたのです。
彼が用いられ、キリスト教の救いが広がったのです。
主は、パウロでさえ、救いを与えられる方。
主は、パウロでさえ、愛される方。
主は、パウロでさえ、用いられる方。
主は、パウロでさえ、見捨てられないのです。
今、私たちの信仰は小さく弱いかもしれません。
しかし、それは「今」の話です。
主に触れられたら…
大きく変わるのです。
信じられない程、成長し、
想像出来ない位の信仰者となるのです。
自分の限界を感じた時、求めましょう‼
主よ。私に触れて下さい‼
私に語って下さい‼
私を用いて下さい‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)