悲しむ者は幸い??【マルコ10:46-52】

2024年

彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

マルコ10:46-52

次男の学校の保護者でクリスチャンの人に

「聖書の中に ‟悲しむ者は幸いです” とあるけれど、

どうして?」と聞かれました…

何となく自分の中では分かっているつもりでしたが、

それを言葉に出して人に説明するとなると…難しい…

「数日、黙想してみる…」と返事をしました。

主に教えてもらうしかない…

聖書に出てくる人で「悲しむ者」って誰だろう?と考えたら

沢山居ました…

サマリヤの女性、長血を患う女性、

べテスタの池の中風の男性、

ナインの町の一人息子を亡くしたやもめ、

10人の重い皮膚病の人たち…

そんな中でも、一番初めに思い出したのは「盲人のバルテマイ」です。

いつから盲人となったのかは分かりませんが、

道端で物乞いをして生きていたのです。

彼の人生は個人的にも社会的にも絶望的な状況におかれていました。

社会から見捨てられ、精神的に押し潰されていたと思います。

自分でも自分を見捨てざるをえないような悲惨な状態。

これ以上の悲しみはないかもしれません。

ただ、減ったお腹を満たすためだけに

物乞いをしていたのではないでしょうか。

バルテマイは、イエスさまの噂を聞き、

「ダビデの子のイエスさま。私を憐れんで下さい!!」と叫んだのです。

本来ならば、人目を避けて生きて来たと思います。

にも拘らず、叫んだのです!

そして大勢の人に止められます。

しかし増々叫び立てたのです。

そして自分の「上着を脱ぎ捨て」、

「直ぐに立ち上がって」イエスさまに近寄ったのです。

わざわざ、上着を脱ぎ捨てと記録されているのを見ると、

自分がもつ僅かなモノさえ、放棄して…と言う意味だと思います。

もしかしたら、物乞いのバルテマイの前には、

僅かなお金や食べ物という施しがあったかもしれません。

それはバルテマイにとっては凄く大切なもの。

財産です。

物乞いにとって「上着」も大きな財産。

上着は、防寒着にもなり寝具であり、

施しを受ける皿にもなるのです。

それらを手放すという事は、

すぐに盗まれる可能性は大きいと思います。

しかし、彼はそれらに気持ちを取られることなく、

直ぐに立ち上がり、主に近寄ったのです。

口語訳を見ると「彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのもとに来た」と書かれています。

躍り上がったのです!!

バルテマイは嬉しさに満たされていたのです!!

悲しみと孤独のどん底にいるバルテマイは、

主にしか頼るしか方法がなかったのです。

だからバルテマイは多くの人に阻止されても、

諦めず、一層大胆に主を呼んだのです!

そして自分が持つモノを手放し、

主に全てを委ねたのです。

そして「見えるようになりたい!!」と主に伝えたのです。

癒しを得たバルテマイは、イエスさまについて行ったのです。

イエスさまについて行く…

イエスさまはこの時、十字架の道を歩まれていたのです。

バルテマイは、全てを捨て主の道を歩んだのです。

…私たちは何か困難にあったり、問題が降りかかってきたら、

「早く解決して欲しい…」と思います。

そして解決した先を想像するのです。

解決したら、前からしたかったあれをしよう!とか

やっと自由になれるんだから、〇〇をしよう…と言う風に。

しかし、バルテマイは長年の苦しみから解放され、

自分の人生を謳歌しようとはしませんでした。

主の道を歩んだのです。

これは、私が今までに経験したことがない程のどん底に彼がいたからだと思います。

自分の人生を謳歌する以上のモノを主に感じたのです。

そう考えたら、

悲しみのどん底を知っている人は、幸いかもしれない。

自分の人生を自分の為に謳歌して生きるより、

主の道を歩む方が、良い生き方、

主に喜ばれる生き方だと言えると思います。

多分、バルテマイが証をしたとしたら、

「悲しむ者は幸い」だと証されるのではないかと思います。

たった一人で悲しみや苦しみの中にいると言うのは、

誰にも相談する事が出来ず、

誰も助け手がいない状態。

心は主に向かうしかないのです。

主にしか頼れない状態に置かれている…。

より一層、主の偉大さを体験できる…。

だから幸いな者なのではないでしょうか。

私は、バルテマイほど「悲しむ者は幸いである」と言う言葉の意味を

実感できていないんだろうな…と思います。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

タイトルとURLをコピーしました