人間の本能と人間の本質【ローマ8:29】

2024年

 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

ローマ8:29

病院で仕事中、私は慌ただしく行ったり来たり…

ナースステーションを通った時に

1人の医師が「それは人間の本質ではなく、本能だよ」という言葉が

耳に入ってきました。

「え?人間の本質?本能?」とビックリしました。

先生たちが何の話をされていたのかは、わからないのですが、

その言葉だけが私の耳に届いたのです。

「本能はまだしも、人間の本質」って何だろう…?と思ったのです。

人間の本能は、生理的欲求(食欲、睡眠欲、排泄欲など)や承認欲求など、

シンプルに「欲」と考えれると思います。

本能は、もっと欲しい。もっと楽しみたい。

人が持っているモノを見て欲しくなる。

人より上に行こうとする。もっと美味しいものを食べたい。

もっと…もっと…と言う思いです。

本能は、欲が働き、利己的になるのです。

という事は、本能のままに生きるという事は、

自分中心な生き方なのです。

本能のままに生きるとは、

主を中心として生きる生き方ではない…

「本質」とは、

「そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質や要素」を意味するようです。

「人間の本質」は… 人間の性質、気質、性格、人格とか?

聖書的に考えたら、何だろう?と考えたら、

私たちは、主の似姿に似せて創造されています。

人間の本質を、主に似せられた存在だと言えると思います。

という事は、主の御心通りに生きようとする姿。

主を愛し、自分を愛し、隣人を愛する姿。

主を中心とした生き方…

本来、エデンの園で人間は本質で生きていたのではないか…

人間に罪が入り、

本質ではなく本能に支配されてしまっているのではないか…

と思いました。

という事は、

イエスさまの十字架の死は、

私たちが本能の支配から解放され

本質に基づいて生きていく為…十字架にかかられた…

私たちが本質中心な生き方をする為に。

私は、主に出会い、主に罪赦されたにも拘らず…

本質的な生き方をしようとせず、

未だ本能に従って生きている事が多い…💦

本能に従って祈っている事が多い…💦

これを下さい。あれを下さい。

こうなりたい… 成功しますように…

本能が求め、本能を満たす祈り…💦

主は、私の祈りを聞きながら、

残念で寂しい思いをされているように感じました。

本能ではなく、本質中心で生きないと‼

本質中心に生きるために、

私たちは主から離れてはいけない…

聖書を読み、祈り、賛美を忘れてはいけない…

本能の奴隷となるのではなく、

本質に従って生きる事が出来るようにと、

しっかりと主の手を握って生きないと。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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