主が動かれる時【使徒16:25-26】

2024年

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

使徒16:25-26

今日は想像の話です。

パウロは生涯で何度も投獄されたり、

鞭打たれたりしています。

パウロの第二回宣教旅行の時にも投獄されました。

パウロは、占いの霊に取りつかれた若い女奴隷から、

霊を追い出したのです。

それを見た女奴隷の主人たちは、稼げなくなったので、

パウロたちを牢獄に入れるように仕向けたのです。

何度も鞭打ちにされ、投獄され、足かせをつけられたのです。

牢獄の中で2人は、祈りつつ神さまに賛美を捧げていたのです。

パウロとシラスは、牢獄の中で祈ったのです。

…どのような祈りをささげたんだろう…

私たちなら、どのような祈りを捧げるだろうか。

何か法を犯すような事をした訳ではない…

多分、牢屋の環境は最悪です。

汚い、臭い、寒い or 暑い…

そして、身体は傷だらけなはずです。

私なら、何て祈っただろう。

「神さま、助けて下さい!」

「ここから早く出たいです…」

「この傷だらけの痛みを早く癒して下さい…」

こんな風に祈るような気がします。

パウロとシラスが、牢獄の中で、

何と祈ったかと言う記録は聖書にはありません。

「祈りつつ賛美の歌を歌っている」としか書かれていません。

しかし、その祈りと賛美を

その時、投獄されていた囚人たちは「聞き入っていた」のです。

囚人なのですから、

多分、罪を犯した人たちです。

(濡れ衣で投獄と言う可能性もありますが)

悪を犯し投獄された人たち。

これも想像ですが、多分牢獄の中では

不平不満、怒りが満ちていたのではないでしょうか。

愛とはかけ離れた、暴力的な言葉や暴力、

明日どうなるとも知れない不安と絶望の中にいたはずです。

看守にも人間的な扱いをされていなかったのではないか。

そんな環境の中、

祈りと賛美を耳にしたのです。

聞き入るのではなく、反発する人がいても良さそう…

「うるさい‼」とヤジが飛んでも良さそうです。

しかし、人々は聞き入ったのです。

そして、この後、地震が起こり、扉が全て開き、鎖が解けたのです。

多分、悪人はここぞとばかりに、逃げるのが普通ではないでしょうか。

しかし何の面識もないパウロのもとに囚人たちは集まっていたのです。

そして、それを知った看守は、

家族そろってキリストを受け入れるのです。

…パウロたちは何て祈っていたんだろう…

1つ分かる事は、私が祈るような事を祈っていないという事だと思います。

「ここから出して下さい」とは祈っていない…

祈りつつ賛美が出来たという事は、

感謝の心があったんだと思います。

理不尽に苛まれ、身体は痛みが走る中、賛美できるでしょうか。

パウロとシラスは、感謝に満たされていたんだと思います。

パウロたちにとって「牢獄」というのは

伝道旅行中に立ち寄った

「1つの場所」に過ぎないのかもしれません。

ここから出る事が目的ではなかったのです。

祈りと賛美の後に、不自然にも地震が起こり、

全ての扉が開かれ、鎖が解かれたのです。

不自然です。

こんな事、あり得ないと思います。

しかし、起こったのです。

…という事は、

パウロとシラスは、自分の願いではなく

「主の御心にあった祈り」を捧げたのです。

主の御心にあった祈りを捧げたので、

主が動かれたのです。

言葉を変えて書くと、

パウロの祈りを聞いて、主は動くしかなかったのです。

パウロの祈りを聞いて、主は牢獄からパウロを出さずにはいられなくなったのです。

主はパウロたちの為に、普通では考えられない事を起こされたのです。

主の御心にあった祈り…

それは、私たちが救われること。

私たちを通して、多くの人が救われること。です。

パウロとシラスは、

牢獄にいながらも、この場所に導かれた事に感謝をし、

投獄されている囚人たちの為、

牢獄で働いている看守の為、

この国の人たちの為に

とりなしの祈りをしたのではないでしょうか。

投獄されている人たちの不安な思いや、苛立ち、不満、孤独…

これらを主に代弁したのではないか…

そして罪を犯してしまった事に対して、

悔い改めの祈りをとりなしたのではないか。

そして、主がこんな私たちをも愛して下さっている事。

救いを与えようとしている事を、

祈ったのではないか。

だから、主は動かれたのです。

目先の自分の為ではなく、

主の御心に沿った祈りをした2人の祈り。

地震の後、パウロたちは牢獄から脱出できただけでなく、

看守とその家族が救われました。

そして、これも聖書には記録されていませんが、

一緒に投獄されていた人たちも救われたのではないかと思います。

祈りと賛美を聞き入っており、

逃走できる状態になったにも関わらず、

パウロたちのもとに留まっていたのです。

という事は、囚人たちは逃走より、

パウロたちの方を選択したという事です。

…主の御心に沿った祈りは、

主の御心を成就させようと、

主は、今の状況から動かれるのです。

今の状況を用いて、御業をなされるのです。

…主の御心に沿う祈りを捧げよう…‼

主の御心とは、

私が救いを受けること

隣人たちも救いを受けること

人々の救いの為に祈って行こう…‼

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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