主を知っていくって素晴らしい⑫【ルカ15:10】

2024年

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

ルカ15:10

次男の記録です。

先週末、ユースの修養会に行きました。

行く度に、期待以上に満たされて帰ってきます。

1週間前にも教会の中高のキャンプに参加しており、

その時は、思ってもない自分の弱さ、

自分が認識出来ていなかった心の傷を示された様子。

ボロボロの泣き、

こんなに傷つき弱い自分は愛されるに値するのか。

こんな自分が主に献身出来るのか、

多くの涙を流した様子。

そんな中でも主に「あなたは弱いから私は選んだんだよ」と語られたそうです。

その時に癒しをうけたけれど、、

私たちって直ぐに揺らぐ存在です。

次男も「本当にこんな僕で良いのか。

主に愛されているのか。

用いようとしてくださるのか?」という疑問が

沸々と涌き出てたそうです。

そんな思いをもって参加した2泊3日のキャンプ。

2回の幻をみたそうです。

1つ目は、気が付けば自分が真っ暗の中に存在して

何も見えない状況に驚き、怖さを感じたそうてます。

そんな中で足を一歩踏み出したら、

真っ暗な世界が、一瞬にして真っ白な世界に変わったそうです。

そして主に抱き締められたそうです。

「これを見てどう感じた?」と聞いたら

「なんか多分だけど、

霊的な目が開いて下さったように感じた」と言っていました。

もう一つの幻は、

次男が多くの人の前で証をしていたそうです。

次男が人々に言った言葉を、

主が次男に語られたそうです。(主が次男の口を使って次男に語る)

その言葉は、

「日本のリバイバルの為に仕えよ。

私があなたにリバイバルをみせる」と

言われたそうです。

自分が体験した幻を話をしてくれました。

これを聞きながら、

私の頭の中ではこのように感じました。

次男(を含め私たち)は、主を知らずに生きていた時、

暗闇の中で生きていたのです。

しかし、「主を信じます。私の罪を赦して下さい」と告白した者は、

その暗闇の世界から一歩でて、

主の栄光の明るい世界に迎え入れられたのです。

主は「待っていたよ。よく来たね」と抱きしめられるのです。

主を信じた者は「いのちの書」に名前が書き記されるのです。

そして私たちの信仰告白を聞いて、

神の御使いたちに喜びがわき起こっているのです。

もしかしたら、私たちは主を信じると告白しても

告白する前の生活や心の在り方、

気持ちなどに大きな変化を

感じていない人がいるかもしれません。

しかし、天ではそうではないのです。

私たちの悔い改めを聞き、

御使いたちまでもが大喜びしているのです。

まさしく、次男が見た幻のように

何も見えない世界から、思い切って一歩歩み出すと、

明るい世界が開かれるのです。

…また、2つ目の幻の話を聞いてこのように感じました。

「5つのパンと2匹の魚」を差し出した子どもを思い出しました。

男の人だけで5000人いたと聖書に記録されています。

子どもや女の人を含めたら1万人は超えていたでしょう。

イエスさまの話を聞こうと群衆が押し寄せていたのです。

そして人々はお腹を空かせていましたが、

食べる物がありませんでした。

これだけ多くの人に食べ物を与えるお金も食べ物を得る所もなかったのです。

イエスさまは弟子たちに、何か食べる物を探すようにいわれました。

1人の子どもが自分のお弁当(5つのパンと2匹の魚)を主に差し出したのです。

1万以上の人がいる中、

子どもの小さな1人分のお弁当が、どのような役に立つでしょうか。

世の中的には「子どものお弁当」に大きな価値はありません。

何の役にも立たないのです。

あってもなくても同じなのです。

しかし、差し出した子どもにとってはどうでしょうか。

お腹を空かせた子どもにとって、自分のお弁当は大切なものです。

子どもにとっては、その時の自分が持つ、一番価値のあるものなのです。

それを子どもは主に差し出したのです。

イエスさまは…お弁当があってもなくても奇跡を起こす事ができます。

この子どものお弁当が、どうしても必要ではなかったのです。

しかし、主は何かをされる時、奇跡を起こさせる時、

働かれる時、私たちが共に働く事を望まれるのです。

だから、常識的にみてこの人数に対して子どものお弁当は

何の役にも立ちませんが、

主は、この子どもの捧げる心を見られ、

5つのパンと2匹の魚から1万人以上の人に食事を与えるという

大きな奇跡を起こされたのです。

次男の信仰は、この子どものように小さなものです。

この世的には特に役に立つものではないかもしれません。

しかし、主は心をみられるのです。

主は私たちの心を用いられるのです。

…私も自分の信仰は小さなものです。

世の中に影響を及ぼせるようなそのような信仰はなく、

自分の信仰を守ることさえ、ままならない時もあるのです。

しかし、今ある自分を捧げよう…

主は私の心を今日も見ておられる…

…次男の信仰は少しずつ成長してるように感じます。

これからも主を離れず、共に人生を歩み、

自分を捧げる人生を歩めますように…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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