いつか主に「聞いてみたい事」ありますか?【ルカ5:4-11】

2024年

話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った、

ルカ5:4-11

いつか、主に会った時に「絶対に聞いてみたい!!」と思う事ってありますか?

…私は求道中、凄く主に聞きたい事がありました。

「私の人生の ‟あの瞬間” 主は本当に私と共にいらっしゃったのか」

「主が私を愛するとおっしゃってくれるなら、

どうして私にこのような人生を与えられたんだろう」

「あの瞬間、あの時期、どうして私が傷を負う事を黙って見ておられたんだろう」

「私が1人沢山流した涙、主はどう見ておられたんだろう」

「涙と痛む心で寝れない日を、主は何を感じておられたんだろう」

沢山、主に聞きたい! と思っていました。

いつか主に出会ったら、

「何故?」「どうして?」絶対に聞きたい事が、沢山ありました。

「聞きたい…」というより

「問い詰めたい…」「問いただしたい…」というのが

もっと素直な表現かもしれません。

今日の聖書の箇所は、私のそんな思いに答えられた箇所です。

群衆がイエスさまの話を聞こうと集まっていたのです。

その横で、ペテロ(当時はシモン)たちは漁を終え、網を洗っていました。

ペテロたちも、イエスさまの噂は知っていたはず。

自分達のすぐ横で、人だかりが出来ていたのです。

しかし、手を休めイエスさまの話を聞こうとせず、

多分、日常をこなす事で精一杯だったんだと思います。

手を休めることなく、自分たちの仕事をしていたのです。

そこに、イエスさまが声をかけられました。

イエスさまは、ペテロに声をかけられ陸から少し離れ、舟から群衆に教えられたのです。

そして教えが終わられ、深みに出て網を下ろすように言われたのです。

夜通し漁をして、何も取れなかったペテロたち。

しかし主の言葉通りしたのです。

すると驚く程の魚が取れ、沈みそうになり

慌ててもう一舟を呼び、2舟とも沈みそうな程の量の魚を捕る事が出来たのです。

それを目の当たりにしたペテロは、

イエスの足もとにひれ伏して、

「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言ったのです。

普通であれば

「え…夜通し何も捕れなかったのに…」

「どうして捕れたのですか?」

「すご…っ! 奇跡ですか?」

と言うと思います。

しかし、この時、ペテロは目の前のイエスさまから

違うものを感じたんだと思います。

単なる「凄い!!」という思いを遥かに超えて、

目の前の主から、今まで感じた事がない「神聖」を感じたのではないか…

一瞬にして、主がどういったお方なのか…

人々が「先生」「預言者」などと言う言葉の域を、遥かに超えたもの…

そのようなものを、感じ取ったのではないか。

ペテロはもしかしたら、日常の仕事をこなす事が忙しく、

自分の罪や、欲などについて考える機会さえなかったかもしれません。

しかし、目の前の「神聖」の存在を通し、

自分の中にある「罪」が浮き彫りになったのです。

ですから「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」という言葉が出たのではないか…と思います。

私は、この個所が好きです。

この個所を読む度に…

私の「主に是非とも聞いてみたい質問」は、

きっと主を感じた瞬間に解決する…

私は、なんてことを問いただそうとしていたんだろう…

自分が「絶対に聞きたい!!」と思っている事…

主を感じた瞬間に、全て解決というか、

どうでもよくなるように思います。

私の「絶対に聞いてみたい」という出来事。

自分の人生でマイナスだと感じている事です。

主に問いただしたいのです。

「何故」「どうして」…

でも、それを遥かに超える、それをすっかり包み込む位の

主の大きさ、全てが主の計画があったこと。

私の人生に無意味な出来事がなかった事。

単に、私は自分の主張が強すぎて、

主の計画を知ろうとする前に、

自分の怒りや思いが先立っていた。

このように問い詰めようと思っていた事が

恥ずかしく感じるんじゃないかと思います。

私はペテロの言葉を読んで、

私はいつか主に会った時に問いただしたい!!と、

ずっとそのような思いを持って生きて来た事を後悔しそう…と思ったのです。

そう思ったら、

「もう…いいや…」と思ったのです。

変な表現になりますが「私は絶対に主に勝てない」と思ったのです。

いくら私が「これだけは絶対に相手が悪い!!」と思っている事さえ、

主には計画があり、全てをご存知であり、

私の思いや主張、私の哲学、私の善悪、私の判断、私の思考…

これら全てを遥かに超える主だからです。

絶対に…私は主を感じた瞬間に

自分の「問いただしたい」という思いを持ち続けながら生きて来た事に後悔すると思いました。

未だに、あの時主が共に居てくれたのか…

これに対する答えは分かりません。

でも居て下さったんだと思います。

どうしてあの時、主は私と助けてくれなかったのか…

これも私は未だに分かりません。

でも、主には私の理解を遥かに超えるような計画があったんだと思えるのです。

だから、私は「問いただす」という思いを持つ事を辞めようと思えました。

そう思いだしたら…

不思議です…

私の「絶対に聞いてみたい!!」「問いただしたい!!」という思い…

なくなりました。

反対に、何か理不尽な事が起きても

「絶対に主には計画がある」

と思えるようになったのです。

私たちは、絶対に主に勝てない…

主は、私を遥かに超えられるお方だからです…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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