厚かましく求めましょう!【マルコ10:46-48】

2024年

 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。

マルコ10:46-48

今朝、目覚めた時に

「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」という場面を思い出しました。

あ… これって盲人のバルテマイのセリフ。

どうして私がこのような事を思ったのか、直ぐに分かりました。

今週の月曜日。

次男の通っている学校で「評議員会」があったのです。

今年度は、私は保護者枠で「評議員」です。

評議員会とは、理事の方たち、校長先生を始めとする教職者。

そして学識経験者として大学の教授や、会社の代表などが集まり、

「学校運営」について話し合うのです。

今、学校で一方的な学校改革が行われています。

その改革は、理事たち中心に動いています。

そしてその理事たちに同調する人が多い集まりです。

私は大人ですが、私よりもっと大人との会議なのです。

そして集まる人たちは知識人…

参加する前から、私の心は「委縮」していたのです。

話自体、難しいですし、ほぼ一人で反対意見を持っての参加なのです。

そして、軽く圧力をかけられると、私の心は一層委縮したのです。

長く感じた会議も終わり、

1人、会議中に配慮のある言葉を発言して下さった方がいたので、

会議後に挨拶をしようと思っていました。

その方は他の方と話をされていました。

少し離れた所で待っていたのですが、

なかなか話が終わらない様子。

そして結局、話をされながら学校を出られたのです。

出て行かれる後ろ姿を見ながら、

声をかけようか、話し中に失礼か?と迷い、

そのまま見送る事になったのです。

簡単に言えば、この会議の時だけに会うのではなく、

関係を築きたかった。

保護者の意見を聞いてもらい、少しでも味方になって欲しかった。

でも、委縮した心は、殻を破り、声をかける事が出来なかったのです。

それが心に残っていたのです。

目覚めに、バルテマイのセリフ。

そうだよな~

バルテマイは、盲目です。

道端で物乞いをしている時に、ナザレのイエスさまだと聞くと

「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めたのです。

すると大勢で、彼を黙らせようとしたのです。

しかし、バルテマイはますます

「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と

叫び立てたのです!

騒いだのです!

バルテマイが声をあげないと、主は止まらなかったかもしれません。

彼は自分に邪魔が入ろうと、主に癒しを叫び求めたのです。

「え…声を上げるって恥ずかしいし…」

「今、イエスさまは忙しそうだし…」

と思っていたら、イエスさまは通り過ぎるかもしれません。

結果、癒しを得ることが出来なかったかもしれないのです。

バルテマイの「絶対に!癒しを得たい!!!」という思い。

積極性。

ある意味「厚かましさ」が必要なのです。

私は理事に、声をだして振り向かせれば良かった…とも思いますが、

それだけの話ではありません。

声を出さないと、自分の思いを伝えないと

主の祝福は、私の目の前を通り過ぎるかもしれない…

今日は「厚かましく祝福を求めよう!」と思いました。

今日も、主に大いなる祝福を求めつつ、過ごしましょう!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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