悪霊どもは、その人から出て、豚に入った。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。
飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。
人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。
目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。
ゲラセ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。
そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。ルカ8:33-39
私たちの人生は、日々、選択の連続だと言われています。
朝目覚め、直ぐに起きようか、5分だけゴロゴロしようか…
朝ごはんに何を食べようか…
そのような小さく感じる選択から、
人生を左右するように感じる選択まであります。
「選択」について昨夜から黙想していました。
今朝、起きてすぐに、
「あ…全ての選択において共通する事がある」…と思ったのです。
レギオンという悪霊に取りつかれた人の話を思い出したのです。
イエスさまの一行は、ガリラヤの向こう側、ゲラサ人の地に行かれました。
「向こう側」とは「異邦人の地」という意味です。
ガリラヤの「こっち側」が、ユダヤ人の地なのです。
主は、ユダヤ人の地から異邦人の地へ向かわれたと書かれています。
主が着かれると、直ぐに悪霊に取りつかれた人がやって来たのです。
長年、服を着ず墓場に住んでおり、町の人は鎖や足かせでその人を監視しようとしましたが、直ぐに引き裂き、無法状態だったのです。
イエスさまは、この人の悪霊をそこにいた豚の群れに追い出したのです。
2000頭いた豚たちは、険しい崖を駆け降り、湖に入り溺れ死んだのです。
その一部始終を見ていた豚を飼っていた人たちは
「この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた」と記録されています。
すると、その噂を聞いた人々がイエスさまの元に集まって来たのです。
悪霊に付かれていた人が正気に戻り、服を着て座っている姿を目の当たりにしました。
「人々は恐ろしくなった」
「民衆はみな、すっかりおびえた」と書かれています。
そして町の群衆が出した結論は、
イエスに「自分たちのところから離れていただきたいと願った」のです
当事者である悪霊に付かれた人はどうだったでしょうか。
「お供をしたいとしきりに願った」と記録されています。
イエスさまは 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをして下さったかを、話して聞かせなさい。」と言われ、
彼はそこから出て行き、イエスさまが自分にどんな大きな事をして下さったのかを、町中に良い広めたのです。
彼は、異邦人の地で初めての伝道者となったのです。
豚を飼っていた人と、悪霊に付かれた人は、同じ出来事をその場で体験しました。
そして、その一部始終を人々に伝えたのです。
しかしそれを聞いた人々は、
一方は、イエスさまにこの地から去るように願い、
一方は、お供をしたいとしきりに願ったのです。
この違いは何でしょうか。
物事をどのように見るか… という違いだと思います。
豚の所有者は、自分の被った損害だけに心が奪われたのです。
もしかしたら、
「大変だ!! 知らないユダヤ人が来て大変な事をしでかした! あの墓場に住む男いるじゃないか? あの男の悪霊を、俺の豚に乗り移させ、俺の2000匹もの豚がいきなり正気を失い、暴れ出し、崖目掛けて湖に一匹残らず飛び込ませた! こんな事、今までに見た事がない! この町に来て何をしでかすか分からない輩が現われたぞ!」
と言ったかもしれません。
一方、悪霊から癒しを受けた男の人は
「私は、素晴らしい事を成さる方に会いました! 私は長年悪霊に取りつかれており、町の人々は私を鎖や足かせで制御しようとしましたが、制御できる人は誰一人いなかったのです。私はイエスというユダヤ人に会い、その方は、言葉をもって私から悪霊を追い出し、悪霊を豚に追いやったのです。私は奇跡を体験しました。このような事を出来る権威のある方が他にいるでしょうか」
と言ったかもしれません。
前者の言葉を聞いた人々は、
イエスさまの元に駆け寄り、正気に戻った男の人を見たら、どう思うでしょうか。
「良き奇跡」ではなく「とんでもない奇跡」なのです。
絶対に不可能な事を、指一本使わず、やってのける人が現われたのです。
怖くなります。近寄りがたく感じます。不安になります。
結果、ここから去って下さい…と願うようになったのです。
豚を飼っていた人が、普段から悪霊に付かれた男の人を、心配し思いやる心があったとしたら、
悪霊から解放される瞬間を目にすれば、
人々に伝える言葉も違ったはずです。
しかし、豚の飼い主は、多分自分の財産にしか関心がなかったのです。
「被害を被った!!」という思いが、
真の意味を曲げてしまい、言葉として出るのです。
飼い主たちは、冷静になり、主の素晴らしい奇跡を伝えることも出来ました。
しかし、それには全く見向きも出来ず、自分の感情を選択し、行動に移したのです。
…という事は、
選択は自分の心の状態に左右されるのです。
普段から健康に関心が高く、気を使っている人は、
朝からの食事にも気を使います。
1日が始まる朝だから、しっかり良いものを食べ体調を整えないと!と考えるはずです。
糖質を抑え、たんぱく質を摂取するために…と考えたりするはずです。
しかし、私のように特に気を付けていない人は、
朝だから… パンをかじったり、時間がない時は食べないという選択をするのです。
小さく見える日常の選択も、
人生を左右させそうな大きく見える選択も…
自分の心に何があるかによって、変わってくるのです。
同じ状況に立たされても、自分の中に何があるかによって選ぶものが変わり、
感じる感情にも違いが出てくるのです。
私たちは、自分の中に何があるでしょうか。
日々、自分の中に良いもの。主を入れないといけないのです。
主を入れる…
主の御言葉を入れるのです。
自分の心のベースに、御言葉という土台をもち、
それを基準に物事を見て選べるようになりたい…
今日も、自分の心に主を入れましょう!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)