立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
使徒9:6
今、長男が韓国から帰って来ています。
久しぶりの帰国です。
韓国では、早天礼拝、学校、奉仕で大忙しです。
家に帰って来て、良く寝ます。そして友達に会ったり、教会関係の人に会ったり。
夜に帰って来て、夜遅くから色々な話をします。
今回の話題は、将来の事。
韓国では、大学の神学部4年。大学院3年を出て牧師へとなるのです。(試験もあります)
色々な選択肢がある中、どの様な道が御心なんだろう…
と、共に祈り、話をします。
こんな時って、将来の姿を夢や幻などで、見せてくれたら…
それに向かって、迷わず歩む事が出来るのに…と思ったりします。
しかし、主は「小さな一歩」しか示してくれない方です。
一番良く分かるのが、パウロ。
キリスト教を迫害するつもりでダマスコに向かう道中、天からの光がパウロの周りを照らし、
主はパウロに「どうして迫害するのか」と語られたのです。
そして、主がパウロに示されたのは
「立ち上がって、町に入りなさい」という事だけです。
そして続けて「そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」
第一歩しか教えられないのです。
何故、町に入るのか、入ってどうなるのか…などは語られないのです。
入る事にどのような意味があるのか、良く分からない1歩を示されるのです。
しかし、考えても見れば、主がパウロに
「あなたは沢山の迫害に遭いながらも、小アジアやギリシャへ3回も伝道旅行に出るよ」とか
「最期は殉教するんだよ」なんて言えば
怖くて、主に従うという選択は出来ないと思います。
一歩一歩と進む中で、パウロは主に応答し、
信仰が強められ、その結果、パウロは大きく用いられたのです。
ずっと先までの未来を知りたい思いと、知ったら従えないんだろうな~という思い。
だったらせめて、ヨセフのようにはっきりとはどうなるのかは分からないにしろ、
大まかな将来像のような示しもある…
そこに至るまでどのような道を歩むのか、将来のビジョンを見せてもらっても、そこに到達するまでの道のりは分からず…
鮮明なビジョンではなく、ぼんやりとしたビジョン…
そんな事を考えていて、1つの御言葉を思い出しました。
あなたの御言葉は、私の足のともしび、私の道の光です。(詩編119:105)
ちょっと驚きました!
「私の足のともしび」なのです。
「ともし火」とは、ともした火…
何となく、主の導きが、ずっーと先まで鮮明な光がまっすぐに届くような、強力な懐中電灯のような光(1本の道筋のような)だったら…と思ってしまうのですが。
私の足のともし火…
真っ直ぐに強力な光がピーンと照らすのではなく、
ローソクの光のような、一本のたいまつのような火。
どちらかと言えば、全てを鮮明に照らし、ハッキリと目的のものを見れる訳ではなく、
ちょっと…ぼんやりと照らすような、対象をするものを鮮明に見る事が出来ない光。
直線的な光ではなく、温かみのある光…
その様な光が「私の道の光」
私が進むべき道を、主が示してくださる光…
やっぱり「良く分からない一歩」ずつなのです。
しかし、主が示される一歩とは、私たちに出来る一歩なのです。
ハードルが高すぎる一歩ではないのです。
手の届く範囲での一歩。
それに応えるかどうか…です。
私たちが主に応答すれば、次を示されるのです。
応答の繰り返し。
意味がないように思えても、理由が分からなくても、
主を信じて一歩進む事を選ぶ。
今日も、主を選び、前進しましょう!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」