主が示して下さる私の道【使徒9:6】

2024年

立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

使徒9:6

今、長男が韓国から帰って来ています。

久しぶりの帰国です。

韓国では、早天礼拝、学校、奉仕で大忙しです。

家に帰って来て、良く寝ます。そして友達に会ったり、教会関係の人に会ったり。

夜に帰って来て、夜遅くから色々な話をします。

今回の話題は、将来の事。

韓国では、大学の神学部4年。大学院3年を出て牧師へとなるのです。(試験もあります)

色々な選択肢がある中、どの様な道が御心なんだろう…

と、共に祈り、話をします。

こんな時って、将来の姿を夢や幻などで、見せてくれたら…

それに向かって、迷わず歩む事が出来るのに…と思ったりします。

しかし、主は「小さな一歩」しか示してくれない方です。

一番良く分かるのが、パウロ。

キリスト教を迫害するつもりでダマスコに向かう道中、天からの光がパウロの周りを照らし、

主はパウロに「どうして迫害するのか」と語られたのです。

そして、主がパウロに示されたのは

「立ち上がって、町に入りなさい」という事だけです。

そして続けて「そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」

第一歩しか教えられないのです。

何故、町に入るのか、入ってどうなるのか…などは語られないのです。

入る事にどのような意味があるのか、良く分からない1歩を示されるのです。

しかし、考えても見れば、主がパウロに

「あなたは沢山の迫害に遭いながらも、小アジアやギリシャへ3回も伝道旅行に出るよ」とか

「最期は殉教するんだよ」なんて言えば

怖くて、主に従うという選択は出来ないと思います。

一歩一歩と進む中で、パウロは主に応答し、

信仰が強められ、その結果、パウロは大きく用いられたのです。

ずっと先までの未来を知りたい思いと、知ったら従えないんだろうな~という思い。

だったらせめて、ヨセフのようにはっきりとはどうなるのかは分からないにしろ、

大まかな将来像のような示しもある…

そこに至るまでどのような道を歩むのか、将来のビジョンを見せてもらっても、そこに到達するまでの道のりは分からず…

鮮明なビジョンではなく、ぼんやりとしたビジョン…

そんな事を考えていて、1つの御言葉を思い出しました。

あなたの御言葉は、私の足のともしび、私の道の光です。(詩編119:105)

ちょっと驚きました!

「私の足のともしび」なのです。

「ともし火」とは、ともした火…

何となく、主の導きが、ずっーと先まで鮮明な光がまっすぐに届くような、強力な懐中電灯のような光(1本の道筋のような)だったら…と思ってしまうのですが。

私の足のともし火…

真っ直ぐに強力な光がピーンと照らすのではなく、

ローソクの光のような、一本のたいまつのような火。

どちらかと言えば、全てを鮮明に照らし、ハッキリと目的のものを見れる訳ではなく、

ちょっと…ぼんやりと照らすような、対象をするものを鮮明に見る事が出来ない光。

直線的な光ではなく、温かみのある光…

その様な光が「私の道の光」

私が進むべき道を、主が示してくださる光…

やっぱり「良く分からない一歩」ずつなのです。

しかし、主が示される一歩とは、私たちに出来る一歩なのです。

ハードルが高すぎる一歩ではないのです。

手の届く範囲での一歩。

それに応えるかどうか…です。

私たちが主に応答すれば、次を示されるのです。

応答の繰り返し。

意味がないように思えても、理由が分からなくても、

主を信じて一歩進む事を選ぶ。

今日も、主を選び、前進しましょう!!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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