わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11
私は、初めてヨセフ物語を読んでから、今に至るまで、時々こんな事を考えるようになりました。
もし、今日神さまの前に立たされることになったら…
そして神さまが
「あなたは自分の人生、どうだった?」と聞かれたら、
私は、何と答える事ができるか…?
私は求道中の時に、創世記のヨセフ物語を読みました。
ヨセフの人生が、自分の人生と重なり、
ヨセフが奴隷として売られたのち、どうなるのかドキドキしながら、読み進めたのを覚えています。
それてヨセフは真面目に主人に仕えていたのに、ポティファルの妻にはめられ、
より一層、よくない状況に陥れられたのです。
こんなことってある…?
真面目に生きてるのに… でも人生はこんな事は大いにある… とも思いながら、
エジプトに兄たちが来て、ヨセフが感情を抑えきれなくなり1人泣く姿に、私も泣きました。
それて、ヨセフは私が想像も出来ない事を言うのです。
「主があなたがたより先に、私を遣わしてくださった」と。
驚き、なんとも言えないショックを受けました。
ヨセフの人生と、自分の人生を重ねて読んでいた私。
私がヨセフなら、22年ぶりに兄たちと再会し、
今まで心の傷を全て吐き出しますと思います。
どれ程、自分が苦しい時間を過ごしたか。
どれ程、涙を流し寝れない日を過ごしたか。
自分の人生を狂わせた相手を罵ると思います。
しかし、ヨセフは一言の嫌味さえ、ヨセフの口から発せられませんでした。
そして同時に、もし私が、主の前に立たされた時、
私は止まることなく、主に泣きながら文句を言うと思ったのです。
同じように傷ついても(私とヨセフは同じではないですけど)、
私は、自分の人生を「他の人の介入により人生が狂った!!」と思い、
ヨセフは「私の人生は主に用いられた人生だ」と思うのです。
これってどういう事なんだろう、、
今、私とヨセフが主の前に立たされたら、
私は自分の人生を嘆き、
ヨセフは、自分の人生に満足を覚え、主に感謝するのではないだろうか…
この違いは何だろう…と考えさせられました。
人間的な目で見れば、ヨセフは被害者です。
生きていれば、多かれ少なかれ、人から傷を受ける事があります。
受けた傷はなかった事にはできない…
受けた傷に対して、自分がどう受け止めるか、どう心を整理するか…
自分がするべき事は、この部分しかないのです。
ヨセフが奴隷として売られ、兄たちを恨みながら投げやりに生きていく事もできました。
もしその様な選択をしたら…どうなっていたのだろう。
ヨセフが見た夢はどうなるんだろう…
これに対しては正解は分かりませんが、
私が思うには、もっと長い奴隷生活を通して、主がヨセフの人格などが整えられるのではないか?
もしくは、初め主が計画されていた夢の成就より、もっとスケールが小さい成就になるのではないか… と思います。
主は、私たち一人一人に計画を持たれています。
しかし、私たちが「主の計画」に視野を移さず、
自分が感じる通りに、自分が思う通りに、自分の目を通して、自分の目に写るものを信じて、
人生を歩むなら、主の初めに持っておられた計画よりスケールが小さくなるのではないか…と思うのです。
私は、主が私に下さる計画、
私に見せようとされる奇跡、
主がなさる業…
最大限を体験したい…
主に最大限用いられたい。(誰よりも…という意味ではないです)
その為にも、
自分の人生を見つめる観点を変えないと…
自分の感じるままに生きるのではなく、
主の御心を求めながら生きて行く。
今与えられている環境、関係の中で、学ぶべき事を習得し、
一歩ずつ、主の道を歩む事ができますように…!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」