それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。
ヨハネ20:25
ドイツの哲学者 ショーペン・ハウエルという人の名言を目にしました。
『誰もが自分の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる』
わー本当にその通りだな~!!と思いました。
そして一人の人物を思い出したのです。
12弟子の「トマス」
トマスは、福音書に3回しか登場しません。
一番有名なのは、復活したイエスさまを信じられず
「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)
と言った人物です。
トマスは「疑り深いトマス」と言われています。
なかなか信じる事が出来ないのです。
弟子たちが集まっている時に復活したイエスさまが現われました。
その時、トマスはその場にいませんでした。
そして他の弟子たちから「イエスさまが復活された!!」と聞くのです。
他の弟子たちは何度もトマスに伝えたのです。
しかも8日間も…
しかし、トマスは「私は、その手の釘の跡を見ないと…」と言ったのです。
どうしてトマスは弟子の1人や2人が「復活したイエスさまに会った」と言ったのではなく、
多くの弟子やマリヤたちも会ったのです。
しかし、信じませんでした。
どうしてでしょうか。
もともとの性格が疑問を持ちやすい、人の意見に流されにくい。という面もあると思いますが。
トマスは、イエスさまが傷ついたボロボロの身体で十字架を担ぎ、ゴルゴダの丘を上って行ったのを見ました。
イエスさまの手に釘を打たれる瞬間も見たのです。
イエスさまの痛みによる悲鳴も聞いたと思います。
イエスさまが十字架に架かっている姿を見ました。
イエスさまの体中から血が下たれ流れる姿を見たのです。
イエスさまが、わき腹を刺される瞬間もみました。
イエスさまの身体から、地と水が流れ出るのを見たのです。
トマスは、イエスさまが傷つき、息絶えていく姿を見たのです。
今までトマスは、主と共に歩みイエスさまが人を生き返らせる場面を目にしました。
しかし、到底そんな事を望めないような死に方を、イエスさまがされるのを見たのです。
イエスさまは亡くなられた。もう居られない…
諦めるしかない、イエスさまの姿を目撃してしまったからだと思います。
あれ程に傷つき、息絶えたイエスさまの姿を見て、命の「限界」を感じたのです。
トマスは、大好きなイエスさまを諦めてしまったのです。
それほどトマスにとっては主の亡くなり方が、この上なく酷く、衝撃的だったのだと思います。
…トマスを含む弟子たちが、家に鍵をかけて集まっている中に、主が入って来られたのです。
まるで、主を諦め、真実が心に入る事を拒み、限界を感じ、心を塞いでしまったトマスの心に、
主が入って来られたように感じます。
トマスの限界を打ち破って、トマスの中に来られたのです。
私たちもトマスと同じで「無理だ」と感じる限界は、
神さまの限界だと思ってしまう可能性があると思います。
私たちの限界は、神さまの限界とは異なる…
トマスが疑ったのは、主を否定する思いからの疑いではないのです。
トマスについて他の2つの記録を見ると(ヨハネ11:16、14章)、トマスは自分の意見をしっかり持ち、人の意見に流されない性格だと分かります。
自分が納得したい。
自分が確信を得たい。
と考えるタイプの様です。
このような一見疑り深い人が、イエスさまを本当に信じたらどうなるでしょうか。
復活したイエスさまは出会ったトマスは
自分の限界から解放されたのです。
自分の限界を遥かに超えるものを持っておられる主に出会ったのです。
そして、イエスさまが天に戻られた後、
弟子たちは立ち上がり宣教に出たのです。
ペテロやヨハネたちは立ち上がり、ローマの方に伝道に行ったのです。
しかしトマスは、たった一人でインドに宣教に行ったのです。
トマスは主に出会い、疑り深いトマスは、揺るぐことがない信仰者と変えられたのです。
疑う動機が間違っていなければ、
誰よりも信じる事が出来る可能性を秘めている…
一見「疑う」とは「不信仰」のように感じますが、
主は、私たちの心を見て用いて下さるのです!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」