私たちには主が必要です【創世記43:14】

2024年

全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

創世記43:14

ヨセフ物語を読み進めていくと学ぶ事が沢山あります。

ヨセフの兄たちは、カナンの地を発ちエジプトに食糧を買いに行き、兄たちは気付きませんでしたが、ヨセフと再会しました。

2番目の兄シメオンだけをエジプトに残させ、兄たちには食料を分けてもらい帰路へ。

そしてヨセフは、末っ子のベニヤミンを連れてくるようにと言ったのです。

それを知った父、ヤコブの心境はどうだったでしょうか。

ヤコブを中心に考えてみると、最悪な状態です。

愛する末っ子ベニヤミンを行かせる事はできません。

何故なら、ベニヤミンはヨセフ同様、自分が一番愛するラケルとの子どもだからです。

…ヤコブは、兄エサウと父イサクを騙し、長子の権利を奪い取り逃亡しました。

そして母の兄であるラバンの家でお世話になり、

ラバンの次女であるラケルと出会い愛したのです。

しかしラバンに騙されヤコブは姉レアと結婚させられたのです。

最終的にヤコブには4人の妻がいました。(レア・ラケルの女奴隷(ビルハ)・レアの女奴隷(ジルパ)・ラケル)

しかしヤコブが本当に愛し結婚を求めた女性は、ラケルだったのです。

そしてラケルとの間になかなか子どもが授からず、やっとの思いでヨセフが生まれたのです。

人間的に考えれば、ヤコブがヨセフを可愛がる気持ちが分かる気もします。

ヤコブのこの偏った愛情が、ヨセフの兄たちに恨みを買うことにも繋がったのです。

ヤコブを中心に考えてみると、

ヤコブはベニヤミンをエジプトに行かせるという事は、最悪な状況に追い込まれているのです。

ヨセフが居ない今、ヤコブは「私にはベニヤミンだけが残っている」と言っています。(ヤコブがベニヤミンしかいないと感じてしまう事自体、偏愛しているという事になります。)

私たちは聖書を読み、これから先、どの様な事が起こるか知っています。

ヤコブはベニヤミンをエジプトに送る事により、ヤコブはヨセフと再会できるのです。

しかし、ヤコブはこれから起こる先の事は想像すら出来ません。

神さまの目から見ると、

ヤコブが大事にしているベニヤミンを、一度「手放す」必要があったのではないでしょうか。

ヤコブは、子どもたちに「ベニヤミンは行かせない」と言い、長い時間、長男たちをエジプトに行かせなかったのです。

いずれ、食物は底が尽きる事は分かっています。

しかし、ヤコブはベニヤミンを手放す決心がつかなかったのです。

決心を付けれなかった期間は、「カナンの地からエジプトまで2往復」出来る期間、

ヤコブはベニヤミンを手放す事を拒否し続けたのです。(43:10)

しかし、手元の食料がなくなり、ヤコブは決心をするのです。

ヤコブが文句を言いながらも決心したことが分かります。

43:6~ ヤコブと言う名ではなく、

以前、神がヤコブに与えられた「イスラエル」として名前が記録されているのです。

…私にもヤコブのような面があるなと思います。

ギリギリまで自分が願う状況をキープしようとするのです。

意固地になり手放そうとしないのです。(手放した方が主の祝福はあるのに…)

…ここで考えてみたいと思います。

ヤコブはヨセフとベニヤミンを溺愛・偏愛しました。

これは仕方ないのでしょうか。

そんな父を見ながら、他の兄弟はヨセフを憎みました。

父親の愛情をヨセフが1人取りしたからです。

だから、兄たちはヨセフを売っても良かったのでしょうか。

ヤコブがヨセフを溺愛する気持ちは分かります。

兄たちがヨセフを嫌う気持ちも分かります。

ヤコブにも兄たちにも、その様な感情が生じる原因があるからです。

兄たちは平等に愛情を注いでくれる両親のもとに育つことが出来たのなら、この様な恐ろしい罪を犯す事はなかったかもしれません。

兄たちの育った環境が悪かった…

ヨセフだけが被害者ではなく、兄たちも被害者だと言えると思います。

しかし忘れてはならないのは、

この世に善人はいないのです。

全ての人が罪人なのです。

私たちは罪ある者が子どもを育て、またその子どもが子どもを育てているのです。

神から離れた価値観、判断力などを持った人間が人間を育てているのです。

私も罪人に育てられ、間違った価値観を持って子どもを育てました。

これが続いて行くのです。

いずれ主の前に立たされた時、

「私は罪人に育てられ、間違った環境の中で育ちました。だから私が罪を犯すのは仕方がないのです」と言えるでしょうか。

このような事を考えている時に、1つの記憶が思い出されました。

昔々、私が運転免許所を取得した時、

テレビで車の事故のニュースを目にしました。

大きな事故で、その事故により後方から来る車が何台も「玉突き事故」を起こしたのです。

「え…っこれって誰の責任になるんだろう?」と思いながら見ていると

ニュース番組に呼ばれていた弁護士さんが、「今回の場合、基本的に玉突きをした後車、一台一台全てに責任がある」と言っていました。

元々は、一番先頭にいた車が事故を起こし、それが影響して後車の車たちが玉突きを起こしてしまったのです。

当時「え…💦 そうなの? 何か納得しにくいけれど… でも聖書的なような気もする…」と思っていました。

私たち、全ての人間は、主の目には正しくない、罪の中で育っているいのです。

もちろん、その環境は人それぞれです。

本当に信じられない位、酷い環境に生まれている人もいる方もいます。

罪の中で育つという事は、心に傷をつけられて育っているのです。

生きる事が苦しく、もがきながら生きている人も多くいます。

皆が傷ついているから仕方がない…と言うのではなく、

だからこそ、私たちには主が必要なのです。

全ての人が罪人であり、罪の許しも必要です。

そして全ての人に、主の癒しも必要なのです。

この世で生きて行くのは楽ではないのです。

私たちは主を信じ神の子とされました。

しかしこの世で生きる限り、罪から切り離され生きていけるのではないのです。

クリスチャンであっても沢山の過ちを犯してしまいます。

だから一層、祈り、守られ、整えられ、癒しを受け、生きて行く必要があるのです。

ヤコブは、苦しみながらもベニヤミンを手放しました。

主に、シメオンとベニヤミンを返して欲しいと祈りながらも

「私も、失うときには、失うのだ」と言っています。

これは、投げやりな態度ではなく、‟主に委ねます”という意味だと思います。

主は、間違った私たちの思考を指摘し、無理やりに変えさそう、奪おうとされる方ではないという事が分かります。

ヤコブが自ら、ギュッと握った手を開き、大切なベニヤミンを主に委ねるという事をするまで

主は待って下さっているのです。

そして自ら手を開いたヤコブを、主は大きく祝福して下さいました。

私たちには主が必要です。

罪があり、傷があるから…

もし、信仰に揺れを感じている方がいたら、

大切なものをギュッと握りしめている方がいたら、

また、信仰に至っていない方がいたら…

主を選び取って下さい!!

私たちには主が必要なのです!!

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