奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、
盗みをせず、努めて真実を表すように勧めなさい。それは彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えをかざるようになるためです。
テトス2:9-10
新約聖書にある「テトスの手紙」は、パウロが書いた手紙です。
「テモテへの手紙ⅠⅡ」と、この「テトスへの手紙」、これは「牧会書簡」と呼ばれています。
この2つの手紙の特徴は、
パウロが、教会を牧会する上で様々な問題となる事を取り上げ助言しています。
個人に書かれたものですが、公に回覧され朗読されるものであり、教会で仕える者(またはキリスト者)は、どうあるべきかという指針が書かれています。
「テトスへの手紙」はパウロが、クレタ島に残したテトスに対して書いた手紙です。
教会で起きている様々な問題に対しての指針を書き送ったものです。
長老は、監督は、クリスチャンは、どの様な人物でいなければならないか、どの様な生き方をするべきか。
信仰をしっかり持ち、間違った教えに影響を受け、惑わされてはいけない。
正しい信仰を持ち、健全な教会でありなさい…という内容です。
そしてこのテトスへの手紙の中で、今日の聖書の箇所に目が留まりました。
奴隷に対して、どうあるべきかが書かれています。
長老や、教会のリーダーに対して、あなた方は模範的であるべきだ。と言うのであれば、すんなり「そうだよね~」と思います。
しかし、ここでは奴隷に対しても「こうあるべきだ」と書かれているのです。
まず、奴隷についてですが。
どうして「奴隷」という身分が存在するのか。
主は全ての物を、同じように愛して下さっているのではないのか…という疑問が生じます。
分かる範囲で書きます。
主は奴隷制度を推奨していません。(エペソ6:9)
旧約時代にも奴隷が存在し、聖書の時代、新約時代にも奴隷が存在しました。
そして現代も、奴隷のような扱いを受けている人が全世界に居ると言われています。
(現代でも5000万人いるようです。強制労働、強制結婚など)
このパウロが手紙を書いた時代の奴隷は、身分の差から生じるものではなく、経済的要因が大きかったそうです。
借金が返せなくなり、家族を養えなくなった場合、自力で生きる事が出来なくなった場合、自らが奴隷となり、主人の下で生きることを望んだようです。
(ローマ社会では半数が奴隷だったと言われています)
身分や人種におていの奴隷、主が定めたものではないです。
誘拐され奴隷として売られたりと、人間により生じたものです。
主が居られるなら、どうしてそんな悲劇をほっておかれるのか…という思いますが、
…分かりません。
戦争も、差別も、奴隷も、主の成された事ではなく、私たち人間が自分のエゴで始まったものです。
私に分かることは、主が望まれていないという事だけです。
話を戻し、
パウロは、奴隷に対しても、どうあるべきかと書いているという事です。
なんとなく、自分が奴隷であったとしたら、
将来に希望を感じる事ができず、自暴自棄になりそうです。
未来の計画もなく、希望もなく、惰性で生きると思います。
テトスへの手紙の中には、
奴隷に対して、「よく主人に従う」という事が健全な状態だというのです。
当時のクレタ人の奴隷は、見かけだけ主人に従い、不平不満を口にし、盗みをしていたようです。
「見かけだけ従う」という思いから解放されなさいというのです。
「見かけだけ従う」という行動は、苦痛であり、ストレスなのです。
その思いから解放され、心から主人に良く従う姿勢を持ちなさい。と勧めています。
そして驚いたのが、
奴隷がその様な苦痛な思いから解放され、善良で信頼できる者になると…
「私たちの救い主である神の教えを飾るようになる」と書かれています。
奴隷が、キリストの教えを飾る事が出来るというのです。
奴隷が、一般な奴隷の思考から解放され、主人に愛を持って従う時、
その姿に周りの人は、キリストを見る事が出来るんだと思います。
奴隷であっても、キリストの香りを放つ事が出来るのです。
奴隷であっても、自分の心の在り方の変化により、主の救いに導くことができるのです。
人間の中で、奴隷以下の人って存在するのでしょうか…?
この世界では、奴隷が一番身分が低く、発言権もないだろうし、主張することもないく、自由が一番ないように思います。
奴隷であっても、キリストを飾る事ができるのです…!!
奴隷でない、私は…何をしているんだろう…
どんな人であっても、キリストを飾ることが出来る!
私は、御言葉により、祈りにより、心がもっと色々なものから解放され、
キリスト者として成長したい…
キリストの香りを放つ者となりたいです。
今日も、主により整えられ、キリストの香りを放つ者へと成長しますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」