ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばあれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
エペソ4:13-16
信仰生活に「揺れ」を感じますか?
昔は、すごく恵まれ「あぁ・・神さま感謝します!!」と思えたのに、
最近は、イマイチ💦
主が本当に居るのか居ないのか・・
今まで感じてきたことは、単なる偶然が重なっただけで・・
主が居ると思ったのは勘違い・・?
というような事が、頭を過ぎった事はないですか?
周りのクリスチャンを見ると、自分とは違いクリスチャンらしい姿の方が目に着いたりします。
いつもニコニコと過ごせている方。
恵みを体験されている方。
自分より凄くクリスチャンらしく見える方が多い・・と感じた事はないですか?
私は、本当に信仰で来ているんだろうか・・
これでクリスチャンだと言っていいのだろうか・・・って。
このような思い・・・私は悪くないと思います!
パウロのように、劇的な主ととの出会いがあり、人生が180°変化し、その後の人生に迷いなくキリストの道を歩み続ける・・・
という人は少ないと思います。
多くの人は、12弟子のように歩むのではないでしょうか。
12弟子はどのような信仰生活だったでしょうか。
主に呼ばれ、主を信じ受け入れる・・
弟子たちは、主と出会い、全てをその場に置き、主と共に歩む人生をスタートさせました。
ずっと主と共に過ごしたのです。
主が話される一つ一つを直接聞き、共に食事をし、主と共に人生を共にしたのです。
しかし、舟の上で嵐や風に見舞われると、主が共におられるのに(寝ていたけど)恐れおののいたのです。
イエスさまが十字架刑の為に、捕らえようとされた時、ペテロは剣を抜いて相手の耳を切り落としています。
そして捕らわれた時、ペテロは主を知らないと三度否定しています。
トマスもイエスさまが復活されたと聞いた時、自分自身でイエスの傷を見ない限り信じないと言いました。
弟子たちは時折、自分たちの中で誰が偉いかと論争していました。
そして何より‥何か目の前に問題が生じると、自分の力で解決方法を探したのです。(パンと魚)
弟子たちは直接、主から沢山学びました。
奇跡も沢山経験したのです。
3年間、一緒に過ごしても人間的な思いや発想を持っていたのです。
このような弟子らしくない失敗や行動、発言などは、弟子たちにとって成長過程だったのです。
子どもが失敗を経験しながら、人格が整っていくように、
私たちも目の前の出来事に心奪われ、信仰の揺れを感じたり、失敗を繰り返し成長すれば良いのです。
大事なのは、主を忘れないこと。
迷いながらも揺れながらも、主を求め続けることです。
そうすれば、確実に成長出来るのです。
主を疑うこと、目の前の現実に恐れることがダメなのではないのです。
その「揺れ」を通して、神様は私たちを成長させて下さいます。
始めは大きな揺れであっても、その揺れは振り子のように段々と小さくなります。
そして揺るがない姿へと成長していけるのです。
主は、揺れを通して働かれるのです!
今宵も主の平安に包まれ、「揺れ」を通して私たちの内に働かれますように・・・
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」