主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
出エジプト14:15
不思議な御言葉を見つけました・・
イスラエルの民が、モーセに連れられて出エジプトをする場面です。
イスラエルの民は、エジプトで400年以上も奴隷生活を強いられていました。
主はモーセを、イスラエルの民の解放の為にエジプトに送ったのです。
モーセはエジプトで10の災いを起こし、ファラオ王から民を解放されたのです。
民もこの不思議な災いを体験しました。
10回も主の奇跡を見たのです。そして奴隷から解放されるなんて思っても居なかった事が自分の人生で起きたのです。
しかし、主はすんなりと約束のカナンの地に民を導きませんでした。
一度、過ぎ去った所に後戻りさせ、海辺に宿泊するように示したのです。(出エジプト14:2)
その時に、エジプト人が多くの軍勢とエジプトの全戦車で追いかけてきたのです。
逃げ場を失ったイスラエルの民は、絶体絶命状態に陥るのです。
民は非常に恐れたと記録させています。口々にモーセに文句を言うのです。
モーセは、民に向かって、
「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」と言いました。
そして主がモーセに言われた言葉が、今日の御言葉です。
「何故、あなたは私に向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。・・・」
「何故、あなたは私に向かって叫ぶのか」と言われたのです。
え? じゃ・・誰に向かって叫べばいいの?と思いませんか?
主は、わざわざ民を後戻りさせ、わざわざ海辺で宿営させたのです。
主が命令し、民が従うと、驚く程多くの敵が迫って来て逃げ場を失ったのです。
そして主が言われたのです。「何故、あなたは私に向かって叫ぶのか」・・
この言葉の続きは、
イスラエルの民に前進するように言え。モーセが手を海の上に差し伸ばすと海を分かれ、民が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。・・と主の言葉は続くのです。
第一声が・・おかしくないですか? 窮地に追い込まれ、主を呼び求めているのに、
何故あなたは、私に向かって叫ぶのか・・・
「何故、私に助けを求めるのか」「何故、私に向かって祈るのか」という意味だと思います。
主の意図は何だったのでしょうか。
この部分を読んだ時に、私たちはいつも主に祈り、主が働かれるのを待っている・・
主が驚くような奇跡を用いて、私に何かして下さるのを待っている・・
もちろん、これは本当に大変大切であり、必要な信仰です。
しかし、自分は動かず、主だけが何かを成し遂げてくれる事を、望み過ぎているのではないかと思いました。
主に祈る・・と良いながら、実は主に呟いているだけなのかもしれません。
主に嘆いているだけなのかもしれません。
私たちは、日本にリバイバルが起こる事を願っています。
1%の壁を打ち破り、キリスト者が増えるように、死に向かって生きている魂が主のもとに立ち返る事を、多くの人が祈っています。
主が働かれ、驚く奇跡を成して下さり、一気に日本が変えられるのを夢見ています。
主が「祈ってばかりいないで・・そろそろ、あなたも一歩踏み出しなさい」と言われている様に感じました。
「いつまで私に丸投げするつもりなんだ・・」
「いつまで私は小さく弱い・・と言い続けるのか」
「あなたに与えた恵みはもう十分である。立ち上がりなさい」
「信仰を持って行動しなさい」
「いつまでも自分の信仰ばかりを満たそうとしないで・・」
「祈っているのに答えられない・・といつまで呟くのだ・・」
モーセは信仰を持ち、自分の手を海の上に差し伸ばしました。すると、海が左右に分かれ陸地とされたのです。
どんな時も、まず主に祈るのが大切。
自分の考えや思い、欲をもって行動しない事は大切。
主の時を待つのも大切。
だと思っていました。
でも・・・「信仰を持って立ち上がり、一歩踏み出す」と言う事も大切なんだと思いました。
待つ事だけが信仰ではない・・・
この短い、一節を読み、
一歩踏み出すキリスト者になりたい・・
ハンナさんが言われていた「屋根をはがす信仰」を持ちたい・・
と新たに感じました。
いつまでも、自分は小さく弱く、何もできない、また主は私に答えて下さらない・・とつぶやいてばかりいないで・・
「主の恵みはあなたに十分である。主の力は、弱さのうちに完全に現れるからである(Ⅱコリント12:9)」
と言う御言葉を握り、前進する時なんだと思いました。
今日も主と共に一歩踏み出す信仰を持つことが出来ますように!