神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
詩編139:23-24
主に自分の心を開く開かないに関係なく、私のの全てについて主は知っておられる。
何を考え何を必要とし、何を求めているのか。
私が自分という人間を知っているより、もっと深い部分まで主はご存じである。
だったら・・・
祈る必要はないのではないだろうか?
祈らなくても主は私の望みも痛みも知っておられる。私の欠点も知っておられる。
ゲームを進めて行けばキャラクターが進化しレベルアップしていくように
主が私に合わせて日々、足らない部分を強め、間違がった考え方や思考の癖があるなら
それを整え、レベルアップさせてくれればいいのに・・・
小さな子どもを持つ親を想像しよう。
親は小さな幼い自分の子どもが一生懸命、自分に話しかける姿をどうみるだろうか。
親は自分の子より人生の経験があり、第一にこの上なくこの子どもを愛している。
幼い子どもが自分に話し終わる前に、子どもが自分に何を話したいか直ぐに気付く。
子どもが何が欲しがっているのか、何を望んでいるのか、簡単に理解できる。
子どもが小さな失敗をごまかしたりする姿・・ 可愛くも思える。
こんなに愛らしい子どもが自分と話さなくなったらどうだろう。
親は心配するし、子どもとのコミュニケーションを望む。
親は子どもが何を言いたいか分かっていても、自分に話して欲しいし
子どもとの時間を共に過ごしたい。コミュニケーションを望む。
コミュニケーションを通して子どもの成長を感じ、それが子どもを育てる親にとっては喜び。
親が望むものは子どもとのコミュニケーション!
子どもの成長に合わせ、失敗への誤魔化しや言い訳などは、親の対処は変わってくる。
1-2歳ぐらいまでなら、クスっと笑えて可愛さを感じる。
でも4-5歳ぐらいが同じことをしたらどうだろう。親は子どもが年相応に成長して行く為に
クスっと笑って通り過ぎない。
子どもの理解力を考えながら話をし注意をする。もしかしたら大きな声で注意するかもしれない。
その行動の根源は「愛する子どもが正しく成長して欲しい」という思いからである。
幼い子どもは何を考えているだろうか。
子どもは日々愛情を求める。
朝目が覚め、親がいることに安心感を得ている。
お腹が減ったら親に伝えれば、食事が与えられると知っている。
愛情を日々与えても与えても、底が無いかのように満足することはない。
常に自分に関心をしめしてくれることを望む。
ずっと手を繋いで欲しいし、常に抱っこを望み、愛情を肌で感じたがる。
時折、親の手を離し、一人で先に歩きたがるが、
その時も親がずっと自分に目を注いでいてくれることを望んでいる。
自分に目を注いでいるという安心感を持って、親を少し離れ一人で歩いてみたがる。
主は私たちの親であり、幼い子どもは私たちである。
主は、子どもの私について全て知っていても、私が主に話すをするのを望まれる。
主の手を離し一人で少し歩いていても、主は私たちが主を確認する為、振り返ることを望まれる。
幼ない子どもを観察してみよう!
自分が幼い子どもの様に主とコミュニケーションをとれているか・・
幼子のような信仰を主は望まれている(マタイ18:1-6)