なたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
Ⅰペテロ1:8
高3の次男は受験生です。
韓国の神学大学を受験中です。
先月、数校面接を受ける為、半月渡韓していました。
韓国語での面接。
私は就職活動で面接を受ける時、面接は苦ではなく
どちらかと言えば「楽しい」
「面接ってさ、準備しておけば
大体は答えれるよ。沢山準備しておけば、楽しめるもの」
と普段から次男に言っていました。
高校で面接の練習を何度も何度もしてもらった様子。
渡韓する前から、ドキドキしていたようで
「行きたくない…(笑)」と言っていました。
一つ目の大学の面接日。
「今から行きます。祈って下さい」とラインがありました。
終わると直ぐに
「終わった~! 楽しかった~!」と!
私は「何を聞かれた??」と
・韓国の競争社会の中でキリスト者としてどの様に生き、また他者を励ますことが出来るか?
・韓国の多文化社会でキリスト教が発展していくために個人間で何ができるか?
・どうして兄と違う神学校を希望したのか?
私「兄と違う神学校は何て答えたの??」
次男「兄と違う道行くことで他の経験や人脈を得て
2人力合わせた時により多様な繋がり、
視点を出せるようにって答えた」
私夫長男「おお~!👏」
私「他の質問は?」
次男「面接の準備で色々と考えさせられたから、
何となく全て上手く答えれたように思う!」
面接、楽しかった!」と言っていました。
…面接や試験など、終わった時に。
まず私が聞きたい事は「どうだった?」です。
内容が難しかったかどうか?を聞きたくなります。
面接でも試験でも、凄く簡単だとしたら
多くの人が良い点数を貰えます。
だから、簡単すぎると、
本当の実力や考えていることなどを、推し量る事ができません。
難しすぎても同じ。
ある程度の難しさが必要…。
その人の努力や試験に対する熱量などを計る事ができるからです。
そんな事を考えていたら、
信仰も同じかもしれない…と思いました。
もし、いつも願った通りに物事が進み、
困難もなく「簡単」な道ばかりなら、
私たちは信仰を「持たなくても」生きていけると思ってしまいがち。
けれど、思い通りにならない時、
答えが見えない時こそ、
私たちの信仰が試され、
そして信仰が磨かれ成長していくのだと思います。
主は、私たちが倒れない程度の「難しさ」を与えてくださる。
それは罰ではなく、信仰を深め、
より確かなものにするための「試験」のようなもの…と言えるかも…。
次男が面接を通して、
準備した答えだけでなく、
自分の内にある思いを言葉にできたように、
私たちも信仰の歩みの中で、
自分の中の信仰を「語れるもの」として
育てていく時間を与えられているのかも!
そして、またこの様にも思いました。
――キリスト教の信仰は「見えないもの」を信じる信仰。
多くの宗教には、形があります。
目に見える像や、触れることのできる御守り、儀式。
けれど、私たちの信仰は目に見えるものではなく、
ただ「主を信じる」という思いや決心そのものに支えられています。
見えない神を信じ続けるというのは、簡単なことではありません。
時には、「本当におられるのだろうか」と
問いかけたくなる瞬間が多々あります。
けれど、その “見えなさ” の中で、
確かに感じる導き、慰め、平安――
それこそが、主は生きておられるという体験となるのではないか…。
見えないからこそ、信じることが試される。
見えないからこそ、
主を感じた時の喜びと確信は、誰にも奪われないとも思います!
面接が終わった後「楽しかった!」と言えたように、
人生の最期にも、
「主が共におられ、幸せだった」と心から言えるような者でありたい…!
そんなことを思わされた、次男の面接でした。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)
