あなた自身は、平安のうちに先祖のもとへ行く。あなたは幸せな番円を過ごして葬られる。
創世記15:15
聖書を読んでいて、
今日の御言葉の箇所に目が留まりました。
主がアブラハムに「幸せな晩年」を約束されたのです。
この約束を貰った時は、
アブラハムはまだ老年ではなく、
子もなく未来への不安を抱えている時期。
それでも主はアブラハムに
「あなたの終わりは幸せ」だと約束されたのです。
主が考える「幸せな晩年」
主の言われる「幸せな晩年」って…何だろう?と思ったのです。
多分…「健康に長生きして裕福に暮らす」と言うことだけを意味するのではないはず…。
主の目から見た幸せな人生の完成…
アブラハムの晩年ってどのように過ごしたんだったっけ?と
聖書を読み進めました。
簡単にアブラハムの人生を整理してみると…
約70~75歳位の時に、
主に「故郷を離れて、わたしが示す地へ行け」と召され、
アブラムはサライと甥ロトを連れてハランを出発。
約75歳で、
カナンに到着。主が「この地をあなたの子孫に与える」と約束。
約75〜80歳の時に
飢饉のためエジプトへ下り、サライを妹と偽る。
約80歳の時に
ロトと別れる。神が再び土地の約束を与える。
約80~85歳
ロトが捕虜となり、アブラムが救出。メルキゼデクと出会う。
約80歳の時に
主は「星の数のように子孫を与える」「幸せな晩年」を約束される。
約86歳の時
サライの女奴隷ハガルとの間にイシュマエルが生まれる。
約99歳の時
主が再び現れ「あなたの名はアブラハム」「サライはサラ」と改め、割礼の契約を与える。
約100歳の時
サラがイサクを出産。
約113〜115歳の時
イサクをモリヤの山でささげるよう命じられ、信仰を試される。
約137歳の時
妻サラが死去。マクペラの洞穴を購入。
約140歳の時
イサクの妻リベカを迎える。
約175歳の時
死去。「幸せな晩年を過ごして老齢に達し、気息を引き取った」と記される。
アブラハムの生涯を振り返ってみると、
アブラハムの生涯は決して
「平坦で安泰な人生」ではない…。
約束を受けても、なかなかすぐには叶わず、
待ち続ける中で、人間的な不安や焦りと戦いながら、
間違った行動をとった事もありました。
しかし彼は「星の数のように子孫を与える」という
大きな約束の根源となるイサクを捧げるまでに
主に全面信頼できる信仰者へと整えられたのです。
主が考える「幸せな晩年」を過ごしたアブラハム…。
アブラハムは、何度も失敗を繰り返しながらも
生涯を通して主を信じ続けたのです。
主に背を向けて終わるのではなく、
主に信頼してその腕の中で息を引き取る…。
アブラハムの人生は「主との関係が整えられた人生」です。
主にとっての「幸せな晩年」とは、
「主との関係が最後まで保たれた人生」を意味すると思います。
これが幸せな晩年の最も中心的なものだと思います。
また、アブラハムは地上で約束のすべてを見たわけではありません。
カナンの地も、わずかな墓地しか所有できませんでした。
しかし彼は「主の約束が必ず成就する」という
確信の中で生き、人生を全うしたのです。
主にとっての幸せな晩年とは、
「主が約束された事を信じたまま、安心して委ねて終える人生」を意味すると思います。
そして、アブラハムは晩年、イサクの結婚を整え、
他の子どもたちにも贈り物を与え、
争いを避け、平和を保ちました。
つまり、自分の人生を他者を祝福する流れの中で終えたのです。
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創12:3)
という主の言葉が、晩年にも実際の姿として現れています。
主にとっての幸せな晩年とは、
自分が満たされるだけでなく、
他の人を祝福する源となる人生…!
つまり「自分が祝福となり、
周りに祝福を流す存在となる」という事を意味すると思います。
信仰の旅の終わりに近づくころ、
アブラハムの心はきっと穏やかで、
静かな確信に満ちていたのではないかと思います。
主の約束は、自分の願う通りの形ではなくとも、
すべての出来事を通して確かに成就する…!
アブラハムはこの世を旅立つ最後の瞬間まで
主を信頼し、主と共に生きたのです。
私もアブラハムのように、
たとえ約束のすべてを目で見ることができなくても、
主を信頼し続けて生きていきたい‼
人生の終わりがいつ訪れても、
「主よ、私はあなたと共に人生を歩めて幸せでした」と
安らかに言えるような晩年を過ごしたい…‼
最後の瞬間まで、主の御手を選ぶ人生を歩もう…!
主の約束は必ず成就すると信じよう…!
私が祝福となり人に祝福を流そう…!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)
