さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。創世記3:1-6
先日、歩道を歩いていたら、
歩道に樹木ベンチがありました。
そこは小学生の通学路です。
1人の子どもがベンチに上がり、歩道を歩いている友達に
何かを叫んでいました。
それを見た友達は、ベンチにいる子に近寄り
互いに手を引っ張り合っていたのです。
小学生がする遊びで、よく見る光景。
ベンチの上の子は少し体格が良く、下から引っ張る子は少し小柄。
しかし、意図も簡単に上の子は下の子に引っ張られていました。
上の子は悔しいようで、もう一度ベンチの上り再試合。
しかし、またしても小柄な子に引っ張られたのです。
上の子は「交代だ!」と言い、体格の良い子が下に。
小柄な子がベンチの上へ。
すると、先ほどよりもっと勢いよく小柄な子は下に引っ張られていました。
その様子を見ながら…なるほどな…と思ったのです。
例えば、凄く立派な親がいたとして、
子どもが良い人に成長するよう、
沢山の会話の時間を持ち、心を込めて育てたとします。
しかし、親元を離れ、学校に通いだし沢山の人と出会います。
その時、もし悪い人に出会ったら、
意図も簡単に引き込まれてしまうのです。
下から引っ張る力は強いのです。
信仰も同じだと思います。
主に罪赦され、神の子とされて喜びに包まれたとしても、
罪の誘惑という力は強いのです。
誰であれ、意図も簡単に負ける可能性が高いのです。
もし、罪に引っ張られたら、
私たちは一度主を知った者、一度主に赦された者として
もっと大きな後悔、罪悪感に見舞われてしまいます。
私たちは罪に負けてしまう存在です。
…どうしたらいいんだろう?
多分…
常に自分は罪に負けてしまう存在だということを自覚する事が大切。
そして「これは罪かも」「これは主に喜ばれない事かも」と
感じた時点で、その場から離れるしかないと思います。
イブは、蛇に誘惑され、善悪の知識の実を見続けたのです。
蛇に会うまでそれほど、
善悪の知識の実に興味はなかったかもしれない。
しかし、蛇と会話を続け、実を見続けた結果、
美味しそうに見えてきたのです。
誘惑は静かに、魅力的で、偶然を装って近寄って来るもの。
常に「罪」に対して敏感であるべきだな~と
子どもたちの姿を見て感じました。
今日も、祈りながら一日を過ごそう…。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)