生きることに疲れていませんか?【イザヤ43:4】

2025年

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(新改訳)

あなたを生かすために他の者が犠牲になった。 あなたのいのちを買い戻すため、 他の者のいのちと交換した。 わたしにとって、あなたは高価で尊いからだ。 わたしはあなたを愛している。(リビングバイブル)

イザヤ43:4

どうして生きているのか分かりますか?

何の為に生きているんだろう?

生きる価値はあるのだろうか?

生きていていいのだろうか?

生きる意味…。

毎日毎日、同じことを繰り返しているだけではないか?

朝起きて、歯を磨き、ご飯を食べ、学校(職場)へ行く

昼休みになりご飯を食べ、

時間を過ごして帰宅する。

ご飯とお風呂を済ませ、眠くなれば寝る。

これを毎日繰り返しているのです。

そして、単に繰り返すのではなく、

その繰り返しの日々の中で

人間関係が時に自分を苦しめるのです。

生きる意味はあるのだろうか。

心は砂漠のように、カラカラ。

砂漠にも時には恵みの雨が降るように

楽しい‼と感じる瞬間があっても、それは一瞬。

直ぐに辛いに非常に引っ張られる。

砂漠に一時の雨が降っても、

その雨で砂漠が潤いを持つのでなく、

雨が降ったという跡形もない状態に直ぐに戻る。

まるで、私の心のよう。

楽しい!嬉しい!と感じる瞬間は、一瞬の息継ぎみたい。

多分、殆どの人はその様に考えたことがあると思います。

だから、「生きる意味なんて考えない!その日その日を一生懸命生きればいい!」

という考え方もあると思います。

しかしそれは、考えても分からないから、考えないという事を選択しているのです。

これは「死んだらどこに行くんだろう」という問いも同じだと思います。

考えられない。答えがない。

だから考える事を避けてしまうのです。

これらは思考を回避した状態で、解決したのではなく、

考えるという事を後回しにした状態…

私は、中学生になった頃から、20代前半まで(クリスチャンになるまで)

ずっとこのような思いで生きるのが苦しかったです。

何かで思いもよらない成功を体験したり、満たされた思いを経験しても

一瞬にして、暗闇に引きずり下ろされ、

闇に投獄されるという感覚がありました。

多分、多くの人も同じ思いを経験されたのではないかと思います。

そんな中、教会に導かれ、多くの偉人と言われる人々の聖書観を目にしました。

当時、私の心に一番響いたのは、哲学者のパスカルの言葉

「人間には神の形をした空洞があり、

それは神によってのみ埋めることができる。」

ビックリしました。

私の心の中にある生きる事に対する虚しさ。

苦しさや寂しさ、何とも言えないこの空洞。

これは神の形だったのか…

だから神にしか埋める事ができないんだ…と思ったのです。

その時から聖書を読み始めました。

しかしこの空洞は、パズルのようなものではないです。

神の形をしたものを、探し当て、自分にはめる。

と言うのとは少し違います。

だから、これがあなたが失ったピースだよ。

と私が答えを教えてあげる事はできません。

でも、教会に通い、礼拝を捧げ、聖書を読み、賛美をし、祈っていく中で、

段々と、聖書の御言葉が私の身体に、私の心に、私の魂に、

溶け込んでいくのが分かりました。

今日の御言葉を読んで、どのように思うでしょうか?

私は初めてこの個所を読んだ時

感動もなく「へー」と思っただけです。

しかし、主を信じ、主と和解を求め、罪を告白し、主の子どもとされ

御言葉が少しずつ、自分の中に入っていくのが分かります。

少しずつ、自分の空洞が埋められていくのです。

少しずつ、満たされていくのです。

しかし、これは一度満たされたからと言って

永遠に満たされるのではないと思います。

日々、お腹が減り食事をするように、

私たちは日々の生活を通して、

心がすり減ることもあれば、

乾きを覚えるなどと言う色々な感情を

感じながら生きているのです。

ですから、日々、心や魂に主の満たしが必要なのです。

生きることが辛く感じる方、

是非、主を信じ、聖書を読んでみて下さい‼️

主と出会い、

心の空洞が満たされますように‥

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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