奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主からうけることをあなたがたは知っています。エペソ6:5-8
最近、次男の学校での学校改革において
私は毎日、とても忙しくしています。
前々から、PTA活動をする事において
いつも迷いがありました。
学校が正しい経営をしているかどうか、とか
私用化されるとか、
そこに私が多くの時間を費やす意味があるんだろうか。
どことなく、福音を伝えるという事に
時間を費やすのであれば、なにか心が引っ掛かる事はないと思うのですが。
福音化とか伝道とか、
そう言った事だけに重きを置く考え方も
どうなんだろう…とも思っていました。
もちろん、伝道するという事は大切な事です。
日本のリバイバルの為に働くという事は大切なこと。
しかし、それ以外のことに時間を費やすことに
心が引っ掛かっている自分に対して、
どうして心が引っ掛かるんだろう。
どことなく、教会中心の生活をする事で安心を得ているのではないか?
とも考えさせられていました。
最近、本当に忙しくなっていて、
今は韓国に渡韓して、韓国の教育委員会に訪問…という話まで出て来ています。
私は心の中で「え…韓国まで行くの?」と
一層、引っ掛かりを感じていました。
…今日、1つの事を思い出したのです。
私は聖書の中の人物で一番好きなのがヨセフです。
ヨセフは、奴隷として13年、過ごしました。
その後、総理大臣になって豊作の期間7年。
飢餓が始まって2年目に兄弟や父と再会しています。
奴隷となった時。ヨセフは17歳。総理大臣になったのは30歳。
この13年間、平穏無事な生活ではありませんでした。
しかし、ヨセフは一貫した生活を送りました。
それは自分に与えらえた主人に従順し、
与えられた仕事を一生懸命したという事です。
ヨセフが奴隷としての仕事を一生懸命した所で、
奴隷から解放される可能性は、ほぼありません。
奴隷は奴隷の人生なのです。
しかし、ヨセフは懸命に与えられた仕事に取り組んだのです。
ヨセフは与えられた仕事が奴隷から解放される為に
取り組んだのではないと思います。
与えられた仕事を懸命にする事が、父親との再会に近付けるものでもなかった。
ヨセフが与えられた仕事、
例えば、ヨセフはポティファルの家で仕えていた時、
ポティファルの全財産の管理を任されのです。
ポティファルの財産を守る事が、福音化につながる訳ではなく、
奴隷からの解放につながる訳ではないのです。
ヨセフは、与えられた仕事を、主に仕えるように仕えたのです。
どのような環境下であっても、
主に仕えるように主人に仕えたヨセフ。
彼はやがて国の飢きんを救う仕事をする事になったのです。
将来はわからない…
今、自分に与えられた仕事を懸命にする事が、
主がどのように扱われるか…
ヨセフが与えられた仕事を懸命にしたように、
私も、与えられた学校の仕事をしよう‼
自分の立場の仕事をしよう…
どことなく、心の引っ掛かりが取れました。
今日も、明日も、
聖書を読み、賛美と祈りを捧げ、
主が与えられた仕事を、懸命にしよう…‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)