主に愛されている証拠【Ⅰヨハネ4:9-10】

2024年

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Ⅰヨハネ4:9-10

どのような時に「愛されている」と感じますか?

恋愛中であれば、

自分が願っている事を、相手が察してくれ自分を満たしてくれたり、

自分が欲しい答えを、相手が答えてくれたり、

自分の期待以上の喜びを与えてもらったら…

このような瞬間に、愛されている…と感じる事が多いかもしれません。

夫婦になると、一緒に生きて行く者として、

または小さな命を守る親として、

恋愛中のような、相手の望む通りに満たしてあげるという事が

難しくなるかもしれません。

しかし…

私たちが、人から愛情を感じる瞬間は、

自分の願っている通り、自分が望んでいる通り、

相手が動いたり、言葉を発して、

自分を満たしてくれる瞬間に

「愛されている」と感じる事が多いと思います。

簡単に言うと、

人は、満たされたら愛されていると感じてしまうのです。

これは、老若男女問わず、

人間として同じような感覚を持っていると思います。

では、神さまの愛はどうでしょうか。

神さまに「愛されているな~~」と思う瞬間は、

どのような瞬間でしょうか?

ずっと祈っている事が成就したら。

願っている通りに成功したら。

思ってもない良い事が起こったら。

私は、このような瞬間に、

「主に愛されている」「主の祝福」と感じます。

主の愛と、人間の愛には違いがあります。

主の愛は、小さい子どもと親の関係に似ていると思います。

小さい子どもは、親になんでも願います。

あれが食べたい。これが欲しい。

これは嫌。こっちが良い!

ある程度は親は叶えてあげます。

しかし、断固として「NO!」と言う時があります。

子どもにとって不必要なものを欲しがった時。

子どもには危険な事。

本来の価値を分かっていないものを欲しがった時。

…子どもがどんなに欲しがっても、懇願したとしても

親の目に「それは不必要」と思えば、絶対に与えないのです。

これは意地悪ではなく、子どもの事を思っての「NO」なのです。

子どもにはその理由が分かりません。

欲しいものは欲しいのです。

「今のあなたには分からないだろうが、

あなたも時がくれば、どうして私がNOと言ったのか理解するだろう…」と親は思います。

子どもが泣いて懇願したとしても、

親は子どもが諦めるまでNOと言い続けるのです。

これは子どもを愛しているからです。

一日中、スマホを見たがる子どもに、

スマホを与える事は簡単です。

親にとっても、泣かずに機嫌よく

スマホに子守りをして貰ったら、楽なのです。

ご飯を食べたがらない子どもに、

子どもが好きなケーキやアイスクリームだけを与え続ければ

どうでしょう。

子どもは泣くことなく、親も嫌がっている子どもをなだめて

一食の食事をさせるというストレスから解放され、

楽なのです。

子どもが願う通りに与えるのは簡単なのです。

しかし、子どもの為に「楽」を選択しないのが、

子どもを思う愛なのです。

神さまの愛も親の愛と似ています。

与える事は簡単なのです。

何でもできるお方だから…

私たちが望む通りに、する事は簡単なのです。

しかし、小さい子どもが、

一日中スマホの動画を見続けたり、ゲームをし続けたら

肉体的にも精神的にも、どのような影響を受けるか。

ご飯を食べずに、お菓子ばかりを食べていたら、

どのような影響を受けるのか…

子どもには想像出来ません。

しかし、親は分かっているのです。

私たちの願いを聞いて下さらないのは、

「主の愛」だと言えると思います。

私たちは、幼子と一緒で、先を読めないのです。

想像出来ないのです。

欲しいものは欲しい!

こうなりたいと思ったら、なりたいのです!

しかし、主は見極められ「NO」と言われるのです。

もっと良いものをあげようと、

もっと最善の道に導こうと、

NOと言われるのです。

反対に、悪の存在は「YES」と簡単に言うと思います。

私たちに最善のものさえ、与えなければ良いのですから、

私たちが望む通りに、与える事は簡単。

しかし、与えたことに責任は持ちません。

与え続け、いつかその影響が現われた時、

私たちを手を放なします。

愛があって与え続けたのではないので、

時が来たら、悪の仕事は終わり、

私たちに背を向けるのです。

主に祈っても答えられない時、

主に願っても与えられない時、

主に望んでも、頑なにNOと言われる時、

主は私たちを本当に愛して下さっている証拠なのです。

私たちは、神さまから離れ、この世で生きて来ました。

この世の価値観を持っているのです。

愛とは、満たし満たされること…というのは、

ある面、正解かもしれませんが、

主の愛を考える時、正解ではないと思います。

私たちの価値観、習慣で

主の愛を求め続けたら、

「私は主に愛されていないかも…」と1人誤解をし

寂しい思いで時間を過ごす事になります。

自分の意見と、主の意見が違う時、

それは主が私を、愛されている時だと言えると思います。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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