私たちの目と主の目【マタイ22:37-39】

2024年

そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

マタイ22:37-39

知人のお葬式に行きました。

多くの参列者が来られていました。

数名の方が、弔辞を読まれ、また喪主の方からの挨拶もありました。

「こんなにも多くの方に弔問をして頂き、故人は改めて幸せな人生だったと思います」とおっしゃられていました。

確かに…

多くの人に愛され、必要とされ、惜しまれて亡くなるのは、

残された家族にとっては大きな慰めです。

そして、もし故人が自分のお葬式を見れるとしたら…

沢山の参列者を見て、自分の人生を振り返り、満足されるかもしれません。

確かに、

家族葬を望まない限り、

参列者が少ないお葬式は寂しい気がします。

お葬式に行って、まず感じるのは、

式の大きさに目が行くと思います。

「わー凄い参列者! 人脈が凄い方だったんだな~」と感じます。

参列者が多いのは、故人やその家族に関係を持った人たちの集まりです。

多ければ、多くの人との関わりを持てた人生だと言えるからです。

誰でも、人に認められたいと思うものです。

人に必要とされたい。

人に愛されたい。

人に大切にされたい。

人に一目置かれたい。

このような思いがあるのです。

今で言えば、‟フォロワー数” や ‟いいねの数” なども同じです。

私たちには「承認要求」があるのです。

人から承認され、自分の存在意義を感じるんだと思います。

自分は必要な人間だと…思いたい!

確信したい気持ちがあるんだと思います。

しかし、私たちは忘れてはいけない事があります…

‟主はどの様に見ておられるのか”

‟主の基準は何か”

これらを忘れてはならない…

主は、私たちがこの世で「どれほど愛されたか」

「どれほど役に立ったか」ではなく、

「どれほど人を愛したか」

「どれほど人に仕えたか」

この点に注目されるのです。

私が、生きている間にどれ程、多くの人から人気を得て、

社会的に認められたか…ではなく。

私がどれ程、多くの人を愛したか。

どれ程多くの人に仕えたか。を見られるんだと思います。

神の子、イエスさまでさえ、仕えられる為ではなく、

仕える為にこの世に来られたのです…

私たちはキリストがされたように生きるべき…

人を愛するとは、難しい事です。

自分が愛しやすい人だけが、愛する対象ではないからです。

愛する事が難しい人…沢山います。

私たちの愛の対象は、その人たちを含むのです。

人々が愛しにくい人を愛するには、

自分の愛では出来ないからです。

主からの愛により、愛せるようになるのです。

文句ばかり言う人、攻撃的な人、自分を差別、迫害する人…

全てが対象…

自分の努力では出来ないですね…

人を愛する事が出来る人は、

主との関係も良好な人だと思います。

主なしには、私たちは人を愛する事が出来ないからです。

そして、主にあって謙遜にされた人だと思います。

主が愛されている人を、私も愛する事が出来る人になりたい…

まず、主と私との関係を深めます…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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