そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。マタイ22:37-39
知人のお葬式に行きました。
多くの参列者が来られていました。
数名の方が、弔辞を読まれ、また喪主の方からの挨拶もありました。
「こんなにも多くの方に弔問をして頂き、故人は改めて幸せな人生だったと思います」とおっしゃられていました。
確かに…
多くの人に愛され、必要とされ、惜しまれて亡くなるのは、
残された家族にとっては大きな慰めです。
そして、もし故人が自分のお葬式を見れるとしたら…
沢山の参列者を見て、自分の人生を振り返り、満足されるかもしれません。
確かに、
家族葬を望まない限り、
参列者が少ないお葬式は寂しい気がします。
お葬式に行って、まず感じるのは、
式の大きさに目が行くと思います。
「わー凄い参列者! 人脈が凄い方だったんだな~」と感じます。
参列者が多いのは、故人やその家族に関係を持った人たちの集まりです。
多ければ、多くの人との関わりを持てた人生だと言えるからです。
誰でも、人に認められたいと思うものです。
人に必要とされたい。
人に愛されたい。
人に大切にされたい。
人に一目置かれたい。
このような思いがあるのです。
今で言えば、‟フォロワー数” や ‟いいねの数” なども同じです。
私たちには「承認要求」があるのです。
人から承認され、自分の存在意義を感じるんだと思います。
自分は必要な人間だと…思いたい!
確信したい気持ちがあるんだと思います。
しかし、私たちは忘れてはいけない事があります…
‟主はどの様に見ておられるのか”
‟主の基準は何か”
これらを忘れてはならない…
主は、私たちがこの世で「どれほど愛されたか」
「どれほど役に立ったか」ではなく、
「どれほど人を愛したか」
「どれほど人に仕えたか」
この点に注目されるのです。
私が、生きている間にどれ程、多くの人から人気を得て、
社会的に認められたか…ではなく。
私がどれ程、多くの人を愛したか。
どれ程多くの人に仕えたか。を見られるんだと思います。
神の子、イエスさまでさえ、仕えられる為ではなく、
仕える為にこの世に来られたのです…
私たちはキリストがされたように生きるべき…
人を愛するとは、難しい事です。
自分が愛しやすい人だけが、愛する対象ではないからです。
愛する事が難しい人…沢山います。
私たちの愛の対象は、その人たちを含むのです。
人々が愛しにくい人を愛するには、
自分の愛では出来ないからです。
主からの愛により、愛せるようになるのです。
文句ばかり言う人、攻撃的な人、自分を差別、迫害する人…
全てが対象…
自分の努力では出来ないですね…
人を愛する事が出来る人は、
主との関係も良好な人だと思います。
主なしには、私たちは人を愛する事が出来ないからです。
そして、主にあって謙遜にされた人だと思います。
主が愛されている人を、私も愛する事が出来る人になりたい…
まず、主と私との関係を深めます…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)