それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
マルコ16:15
私は、次男が通っている学校でPTA活動をしています。
学校は今、一方的な改革を行い、
ずっとざわつき、問題が続いているのです。
今年度は参加しないようにしようかとも考えていました。
途轍もなく忙しくなるのは分かっていたし、
教会や奉仕の事で忙しくなるのならまだしも…
PTA活動で忙しくなるって…どうなんだろう…と悩んだのです。
この活動をするべきかどうか…
そして今年度は単なるPTA役員の1人としての参加ではなく、
一番の責任者として…です。
色々と考えました。
このブログも毎日書きたいと思っているし(書くのに結構時間がかかる)
私なりに、色々と忙しいのです。
それなのに、わざわざ自分から問題に首を突っ込むのはどうなんだろう…
子どもが通う学校が、私物化されようと、
それに私が関与するべきなんだろうか…
私物化されて欲しくない…という多くの卒業生、保護者の意見があったとしても、
それがそんなに重要なんだろうか。
主はどう思われているんだろう…
福音を伝えるという事で忙しくなるのではなく、
これって自分の願いが優先されていないだろうか。
それは私が時間を費やして守ろうとするべき事柄なんだろうか。
主はどう思われているんだろう…とずっと悩んでいました。
祈りの中、何度も思い出したのは「良きサマリヤ人のたとえ」です。
強盗に襲われ倒れている人を横目に
祭司やレビ人は通り過ぎました。
しかし、その次に通りかかったサマリヤ人は、倒れている人を介抱し
宿屋に泊め支払いまでしたのです。
多分、祭司やレビ人は「関わりたくない」と思ったでしょうし、
同胞でもないし「自分の人生には関係がない」とも思ったと思うのです。
サマリヤ人にとっても倒れている人は「自分の人生に関係がない」出来事だったのです。
自分の人生に、倒れている人と関わりを持ち、
自分の人生に引きずり込まなくても良いはずです。
しかし、サマリヤ人は、自分の人生の道中に出会った人を、
自分の人生に引き入れたのです。
見て見ぬフリをしなかったのです。
自分の人生の道中で出会った人。
またその人は傷つき弱っていたのです。
その人を自分の人生の一部として受け入れたのです。
そう考えたら、自分の人生で出会う人、
出会う出来事を、自分の人生として自分が隣人になって良いのではないか?
と思うようになりました。
でも、目に見えて忙しくなるのは分かっていましたし、
頭を悩ます出来事に首を突っ込むのですから、
気軽に決断する事ができませんでした。
何度も何カ月も祈りました。
祈る中「どちらでもいい」という答えを貰っていました。
自分の人生に引き入れたら、
引き入れた世界を私に体験させてくれると。
もし、どうしても引き入れたくないなら、それでもかまわないと。
引き入れない別の世界を私に見せて下さると…
そして、その世界は上下の優越があるのではなく、
見える景色や体験する事が違うだけなんだという事。
それぞれが祝福であるという事。
だから、自分で選びなさい…と
何度祈っても、この答えが心に迫って来ていました。
…今日、聖書を読んでいて目に留まった箇所。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
自分だけの世界に閉じこもらないで、外に出ていく…
クリスチャンだけの世界、生活に留まるのではなく、
福音を知らない人と関わりを持って、
その中に入って行く…
私たちは、外に出て行き、
その中に入って行きなさいと言われているんだ…と思ったのです。
福音を知らない人と関わりを持たないと
福音を伝えることが出来ないので、当たり前と言えば当たり前です。
幸い、学校の多くの保護者や先生方は
私がクリスチャンだと知っています。
目の前で繰り広げられる問題に対処しながら、
この活動を通して出会う一人一人の救いを祈っていこうと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)