「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
マタイ22:37-39
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」
三浦綾子さんの「氷点」に出てくる言葉です。
凄く考えさせられる言葉だと思い、
氷点を読んだ随分昔に、書き留めたノートから久しぶりにこの言葉に出会いました。
自分の人生を終えて、残るもの。
懸命に集めたものではなく、与えたもの。
与えたものって何でしょうか。
三浦綾子さんはどのような思いでこれを書かれたのか…
彼女はクリスチャンです。
まず、人生で集めたものは、何となく沢山思い浮かべる事ができます。
能力や学歴かもしれませんし、資格や、名声。
今務めている会社のネームバリューかもしれません。
実績や持ち物かもしれません。
家や車。もしくは趣味の何かかも。
人脈や友達。経済力。人気や知名度…
これら多くの物は、簡単に手に入れれるものではなく、努力や時間などを費やして
手に入れたものが多いと思います。
人生の内に集めたものですから、簡単に棚ぼたのように手に入れたというより、懸命な努力によってかもしれません。
感嘆には手に入れることが出来ない、それらのものよりも「与えたもの」の方が重要だというのです。
「与えたもの」って何でしょうか。
人を助けることや、そこに費やされる時間かも。
また思いやりや、同情。愛情。犠牲かもしれません。
「与えたもの」って言う事は、自分の手を離れ誰かに渡したもの(譲った)です。
聖書的に考えると…何でしょうか。
主が私たちに一番願っている事は、
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
簡単に言えば「全身全霊で主を愛し、隣人を愛しなさい」と言えます。
主が私たちに願っているのは「愛」なのです。
私たちは、この世に生まれ成長するによって、沢山の努力を通して手に入れようとするものがあります。
もしかしたら「お医者さんになりたい!」というビジョンを持つかもしれません。
「政治家になって良い国をつくりたい」
「学校の先生になって子どもたちの成長の手助けをしたい」
「楽器を演奏し、主に栄光を帰したい」
色々な夢があるかもしれません。
しかし、主が一番私たちに望まれている事は…
「全身全霊で主を愛し、隣人を愛する」なのです。
ということは…
私たちはこの世で「どれだけ愛されたか」よりも
「どれだけ愛したか」が大切なのです。
「どれだけ愛したか」が天の御国で主に会った時に、
主が見られる部分なんだと思います。
「あなたは私をどれ程愛しましたか?」
「あなたは隣人をどれ程愛しましたか?」
とイエスさまがペテロに聞いたように、私たちにも聞かれるかもしれません。
私たちの住むこの世では、
自分と合わない人、攻撃してくる人、ややこしい人とは、
距離を置き付き合うのが賢い生き方だとされています。
しかし…
私たちが愛しやすい人だけを愛したとしても、それに意味はないとは思いませんが、
それでいいのだろうか…とも思います。
愛しやすい人だけを愛するのは、誰にでもできることだからです。
学校や会社、教会の中にも愛しにくい人が居ると思います。
それは、主が私に「隣人を愛する」という訓練の為に出会わせているのかもしれません。
私の愛が、もっと大きく、もっと深く、もっと広く成長する為に。
訓練なくして、私の愛は成長しないから…
相手が愛してくれるから、自分も愛するのではなく…
相手の思いは関係がないのです💦
相手は私の事をどう思っていようと…なのです。
今、自分の周りにいる難しい人は、主が与えられた課題かもしれません。
課題は、それに取り組みクリアして欲しいから与えられるもの。
今日は、このことを覚えて一日を過ごしたいと思います。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」