あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
Ⅰペテロ1:7
去年の春ごろ、近所に住む小さな男の子をよく見かけました。
幼稚園に行くのが嫌で、朝見かける度に大泣きをしていました。
泣いている子どもを幼稚園へ行くバス停まで取れていくお母さん。
毎日大変だろうな…と思いつつ、心の中で祝福を祈り通り過ぎていました。
そして先日スーパーに行った時、久しぶりに少し大きく成長した男の子を見かけました。
あれ?あの子…と思いながら見ていると、いくつかのお菓子を手にしていました。
そして、お母さんのもとに駆け寄り、買い物かごにお菓子を入れていました。
お母さんに「そんなに沢山ダメ! 一つだけ!」と言われ、
自分が欲しいお菓子を買えない男の子は、ギャン泣きしていました。
久しぶりに泣いている姿を見て、「もともとよく泣く子だったのか…」と、ちょっとクスっと笑えました。
スーパーの帰り道、この男の子の姿が忘れられず、黙想しました。
小さい子どもにとって、親元を離れ幼稚園や保育園に行くのが難しいです。
多くの子どもが親から離れ、知らない環境へ行く事に不安に思い、泣きます。
私も長男を初めて保育園に連れて行き始めた時、凄く泣かれて心が痛んだのを覚えています。
子どもにしたら「試練」です。
どうして家に居たらダメなんだろう。
どうして知らない子どもや大人と一緒に過ごさないといけないんだろう。
自分には家という居場所があるのに。
大好きなママやパパと離れないといけないんだろう。
家で大好きなママと一緒に過ごしたい。
保育園の給食は、大嫌いな人参を食べなさいと言われる。
こんなにも泣いて訴えているのに、どうしてパパとママは僕を突き放すのだろう。
僕がこんなに嫌がっているのに、僕のことが嫌いなんだろうか。
と思うのではないでしょうか。(もちろん、ここまでは考えられないでしょうけれど)
親はどうして、子どもがこんなに嫌がって泣いているのに、無理やりにも行かせるのでしょうか。
幼稚園や保育園へ送る理由は色々あると思いますが、
社会性を身に付ける上で大切な場所となっています。
自分と自分を受け入れてわがままを聞いてくれる親、以外の人と出会う場所です。
同年代のお友達に会い、一緒に時間を過ごす中で、人にしてはいけないこと、一緒に協力すると楽しい事。ルールを守る必要性。規則的な生活。また沢山の学びもあります。
親はこのような社会性を身に付けさせる為に、
子どもが良い方向に成長する為にも、
嫌がっている子どもを送るのです。
親には子どもには分からない理由がある…
子どもには分からないのです。
どうして、幼稚園へ行かないといけないのか。
どうして、野菜を食べないといけないのか。
どうして、アイスクリームだけを食べて過ごしたらいけないのか。
どうして、決まった時間にご飯を食べないといけないんだろう。
どうして、絶対に欲しいこの素晴らしいおもちゃを買ってくれないのか。
どうして、夜に寝ないといけないのか。
どうして、ずっとゲームをさせてくれないんだろう。
親は子どもより長く生きてきて、これから生きて行くうえでこの子に何が必要なのか知っているのです。
それに比べ、子どもは今のこと、今日の事しか考えられないのです。
…親は理由が分からず泣いている子どもを見て心を痛めます。
でも、子どもの成長の為に幼稚園に送るのです。「頑張れ!」と思いながら。
親は家に居ながら、ずっと子どもを思うのです。
「頑張ってるかな…」「大丈夫かな…」「楽しんでたらいいな…」
帰りのバスを待ち、子どもが泣きながら帰ってきたら… どうでしょう?
親は、一日ずっと泣いていたのかと心がもっと痛みます。
しかし、笑顔いっぱいで「ただいま!」と言ってくれたら、子どもの成長を感じ、嬉しいのではないでしょうか。
私たちと神さまの関係のようです。
私たちが感じる目の前にある苦難。
「どうして??」と思えるような事柄。
全てに意味があるのです。
主を信頼し、今ある環境を受け入れてみるのはどうでしょうか。
主が、私たちに何かを教えたいのです。
主が、私たちに何かを語りたいのです。
環境を受け入れず「どうして??」とばかり口にするなら、主も心が痛むと思います。
私を信じてくれないか?
と思われるのではないでしょうか。
「どうして?」という思いを一旦横に置き、
「主よ。今私に教えようとしている事を私が悟る事が出来ますように!」と祈れる者になりたいです。
将来、主に出会った時「ただいま!! 楽しかった!!」と、笑顔で主に会えるように生きて行きたいです。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」