神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
出エジプト3:14
先日、仕事で病院に行った時、病室を回っていくと韓国の名前の患者さんが入院されている事に気が付きました。
韓国語で声をかけ、困ってる事はないのか聞きました。
私の発音がイマイチだったのだと思いますが
「あなたはどこ出身?ソウル?」と聞かれ、日本語で「あ、私日本人なんです」と答えました。
そして夫が韓国人だということなどを伝えました。
そしてその方のベッドを離れた時、
その会話を聞いていた看護師さんが、「‟私は日本人です”っていう自己紹介、初めて聞いた(笑)」と言われました。
そうですよね。自己紹介で「私は日本人です」ってあまり使う事はない…
自己紹介って話す相手によって内容が少し変わりますよね。
学生であれば、地元で自己紹介する事があれば、学校名と学年も言うかもしれません。
しかし、地元ではない他の地方で自己紹介をする時は、学校名まで言っても伝わらないので、学年や年齢を伝えると思います。
社会人も、相手によって、会社名まで言う事もあれば、業種だけを言うかもしれません。
相手にとって分かりやすい、共通点を持てる部分、関心がある部分を考えて自己紹介をする…
そんな事を考えていました。
そしてふと、主の自己紹介を思い出したのです。
主も自己紹介をしています。(いくつもあります)
その中の1つが、今日の御言葉「私は‟ある”という者である」です。
変わった自己紹介です。
どういう意味なんだろう…
私たちにとって分かりやすい、共通点を持てる部分、関心がある部分の自己紹介のはず。
「私は‟ある”という者である」
私は、永遠の昔から変わる事なく、ずっと存在している。という意味だと思います。
そう思うと、
私たちは何か困難にぶち当たった時、悲しみに陥った時、理不尽な思いに苛まれた時、孤独に追いやられた時…
神はいるのだろうか…
という疑問を持ちます。
戦争が起きると、災害が起こると、
神がいるなら、どうして…
という疑問が生じるのです。
人間は、飛びあがるほどの良い事が起きても、神を思い出しませんが、
嫌な事、起こって欲しくない事が起こった時、
私たちの思考は「神がいるなら…」となるようです。
クリスチャンであってもなくても、「神の存在」という基本的な問いは、何度も頭を過ぎると思います。
人間にとって、神さまが存在するということは、当たり前のことではないのです。
普通であれば、相手の存在の有無は自己紹介で必要ないのですが、
主の自己紹介は「私は存在するんだよ」「私は確かにいる者である」から始まるのです。
誰もが行き詰った時に考える「神はいるのか?いないのか?」という大前提について、
主はしっかりと御自分の言葉で教えてくださっているのです。
主は本当に私たちの事をよくご存じ…
「私は過去に存在し、現在も存在し、未来永遠に存在する」
誰が何と言おうと、変わらずずっと存在していると…
そして、この主と私たちが関わりを持つと、
主はもっと具体的な自己紹介をされています。
「私は命のパンである」ヨハネ6:35
「私は世の光です」8:12
「私は門です」10:9
「私は良い牧者です」10:11
「私はよみがえりです。命です」11:25
「私は道であり、真理であり、命なのです」14:6
「私はまことのぶどうの木」15:1
改めて一つ一つの自己紹介を見ると、私たちに必要な自己紹介だと思います。
私たちの生きて行く方向性を示してくれる神さまなのです。
私たちが歩むべき道であられ、通るべき門であられ、方向性を示して下さる光。
そしてその歩むべき道も一人で歩むのではなく、
私を導き守ってくれる牧者が共いるのです。
私たちは主という命に向かって、主に繋がって生きて行くべき存在。
「私はある」という不思議な自己紹介。
私たちが生きて行く中、主の存在を疑ってしまうという事までご存知で、
それを前提としての自己紹介。
本当に感謝です。
今日も、主との時間を大切に出来る一日となりますように…!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」