わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
Ⅱ歴代誌7:14-15
私は、日々、神社の為にどのように祈って行ったら良いのだろう…
と祈りながら考えを巡らせています。
祈りってどの様に祈っても良いのですが、
「子どもが親に何かを求める時の言い方」と「成熟した人が人に何かを求める時の言い方」って違います。
私たちも、人に何かを頼まれた時、
(極端に言えば)、面倒だな…と思いつつ自分が動く時もあれば、これは助けてあげないと!と親身になって動く時があります。
言い方、頼み方、願い方、って大切ですよね。
面倒だなと相手が感じて助けてくれる場合は、こちらが願った事だけを助けてくれます。
しかし、親身に自分の事のように助けようとしてくれる人は、願った事以外にも心を配り、
「これも必要ではないか?」「こうすればもっと良いのではないか?」と言ったような配慮までしてもらえる事があります。
だから、祈り方って大切なのです。
アブラハムは、甥のロトがいるソドムとゴモラが滅ぼされると知った時、
主にとりなしています。
主と交渉をしました。(正しい人50人→10人)
アブラハムの祈りは、主の心を動かしたのです。
祈り方により、主の心を動かす事が出来るのです。
私は昔、母と共に実家近くの神社に対して祈っていました。
月日が流れ、母も亡くなり、忘れかけていたビジョンを今年の4月に思い出したのです。
まずどの様に祈れば良いのだろう…というのが祈りの課題でした。
「神社に対するとりなしの祈り」の為の祈り・・(ややこしい…)
まず与えられたのは、「憐れんで下さい」と祈るという事でした。
母親が残した、その神社の軸となられる方々の名前があります。
ずっとその名前を書かれた紙をもって母親が祈っていました。
私がその紙を聖書に挟み、毎日祈っています。
一人一人の名前を挙げ、
「真実なる主を知らずに愚かな事をしている事を憐れんで下さい」
「今日も、主の憐れみで彼らを覆い、主に気付くことが出来ますように」
「憐れみの主よ。今日、彼らが良心を通して、自然を通して、吹き抜ける風を通して、主が居られると感じる事ができます様に」
「彼らの頑なな心を憐れんで下さい。今何をしているのか分からないのです」
「あなたの憐みの愛が、彼らの心を打ち、目覚める事ができますように」
「彼らに、夢を通して自然を通して、目に入る全ての物を通して主の臨在を感じる事ができるように主が彼らを憐れんで下さい。」
こんな風に祈っていました。
そして今朝の祈りの中で次の祈りが示されました。
「悔い改めの祈り」です。
主には法則の様なものがあります。
アブラハムも、ダニエルも、ヨエルやエズラ、モーセもネヘミヤも…
自分の民の罪に対して、先祖の罪に対して、悔い改めのとりなしの祈りをしたのです。
自分の民族の罪に対して、悔い改めの祈りを捧げ、とりなす事によって…
そこから主の祝福が注がれるのです。
悔い改めなしに、主の祝福…と言うのもあるかもしれませんが、
多くの場合、聖書を見ると、自分の罪と、自分の民族が今まで犯してきた罪を悔い改め、とりなしの祈りを捧げる先です。
その後に祝福で満たされるのです。
これは主の法則だと思います。
今朝、その様な思いが与えられ、
今日からは、自分の罪と、神社の人々の罪の悔い改め、とりなしの祈りをしていきたいと思いました。
日本のリバイバルが起こされる為には、
「主よ。私たちを祝福し、日本にリバイバルが起こりますように」と祈る前に、
私たちクリスチャンが日本の罪を悔い改め、とりなしていく事を主は望まれている様に思います。
今日から祈っていきます!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」