どうして祈れないのでしょうか・・【ルカ11:1】

2023年

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

ルカ11:1

先日、友達と電話をして私が「最近、信仰どう?」と聞きました。

自分で聞いておきながらも、ふと「最近、信仰どう?」って不思議な質問だなと思いました。

これは普通にクリスチャンが良く使う会話の1つです。特に不思議でも変でもないと思いますが・・

でも「最近、信仰どう?」という問いかけは、神さまと私の関係性はどうかという質問です。

改めて凄いな・・!と思いました。

私たちが信じる神さまは、私たち一人一人とコンタクトを取り、関係性を築ける神さまであるという事です。

私達が一方的に拝んだり、願い事をする神さまではなく、関係性を築ける神さまを信仰出来ているのです。

神社やお寺への信仰は、「最近、スッゴク満たされてる!」または「最近、(信仰は)イマイチなんだよね・・」という会話は成立しないように思います。

そんな事を思ったら、‟凄いな~!イエスさまって生きているから、この様な会話が成り立つんだ!” と思いました。

多分、他の信仰は、私たちからの一方的にアプローチをし、捧げもの(賽銭)をします。

しかしイエスさまは、私たちがアプローチする前から、与えて下さる神さま。

祈りも同じです。

他の神も祈りがあるとは思いますが、これも同様、私たち側が一方的にするものです。

しかし私たちのイエスさまは、祈りを通して関係を築いて下さる神・・・

そう思うと祈りって素晴らしい!!

クリスチャンの特権です。

昔、韓国にいた時にケニアに宣教師として行った先生に話を聞いた事があります。

ケニアに行った当初、自分の国とは違い、貧しく教会もなく学校もなく教育を受けれず、生きて行く為に家の仕事をしている多くの子どもの姿をみたそうです。

大人たちもこれと言った仕事がなく・・貧しさから抜けれない状態を目にして、

「これから私たちがするべき事が多い!!」と奮闘し、その地で懸命に伝道し、また人々に仕えたそうです。

そして4-5年程経ち、自分たちの働きを振り返って見て、愕然としたそうです。

何一つ改善された所がない。何も変わっていない。教会にも誰も来ない。その村も貧しさから抜けれた訳ではない。

「この地は実を結ばない地なのでしょうか」と、疲れ果てた心で祈ったそうです。

主の示しを受け自分の国を離れ、この地で仕えているのに・・一体私は何をしているんだろうか・・という疑問が湧いたそうです。

あれは本当に示しだったのだろうか。

主はどうして私をこの地に送られたのか。

主は私に何を望んで居られるのか。

そんな事を考える中、先生と主との関係も良くないものに変化していったそうです。

主は本当に生きておられるのか。今まで主を感じ従って来たけれど、自分の思い違いであったのではないか。と色々な不信を感じたそうです。

宣教師としての道・・これは間違いだったのかも。

ケニアのこの地が主によってリバイバルされるのを夢見て、何もかも捨て従ったのに・・

主との関係が狂い始め、信仰が揺れ動いたのです。

主に祈っても、喜びも感じる事が出来ず、主が無言で居られるように感じたのです。

宣教師でありながら、出口が分からない暗闇の中にいるような孤独な時間を過ごしたそうです。

そして年に一度の宣教報告の為に韓国に帰国した時、早天礼拝で沢山の涙を流したそうです。

私はどうすればいいのか・・

主は私を離れられたのではないか・・

沢山の涙を流す時間が過ぎ、

「あなたは何故、私に留まる時間を持たないのか・・」という内なる声がしたそうです。(心の中に声が響く感じ)

先生「私は毎日、祈ってるじゃないですか・・」

主「私は、そのような祈りではなく、あなたと深い時間を求めている」

先生は、毎日祈っていたそうです。自分一人でも、また祈りを求める人に対しても共に祈る時間を持っていたそうです。

しかし主が望まれていたのは、それ以上の祈りの時間。

ケニアでの目先の働きではなく、ケニアで主と交わる時間を求めていたのです。

ケニアに戻り、主が望まれる祈りの時間を持とうとしても「主の前に留まる」と言うのが簡単でないと感じたそうです。

それと同時に、今まで主の前に留まっていなかったんだと痛感したそうです。

本来はケニアの働きについて祈るつもりでしたが、まず「主の前に留まる事が出来ますように」と、祈る時間を持つことから始めたそうです。

これは、「祈りの前の祈り」です。

どの様に祈れば良いのか、祈る心を与えてもらう、自分の中に切に祈りたい!と言う思いを与えてもらう・・・このような「祈りの前の祈り」

ここからスタートする必要があるのです。

そして、先生は毎日2-3時間祈れるようになったそうです。

すると、伝道していないのに人々から教会に来るようになったのです。

数ヶ月の間に教会に人がいっぱいになったそうです。

今まで懸命に働き仕えている時は、自分が頑張っていたのです。主に依り頼むと祈りながらも、自分の力で人を教会へ導こうとしていたのです。

しかし、主の前に留まる時間を持つことにより、自分ではなく主が働かれ始めたそうです。

私達も同じだと思います。

「主に依り頼む」「主に委ねる」「主にお任せする」と祈りながらも、懸命に打開策を考えたりしているかもしれません。

主の前に留まる時間を持つ・・そして本当に自分の心を主に明け渡す・・私たちはこれらを「している」と認識していたとしても、

主は「主が望むレベル」までする事を望まれているのです。

まず、「主の前に留まる時間を持てるように」という、‟祈りの前の祈り” から始める一日をお過ごしください・・!!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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