さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。
人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
ピリピ1:12-21
この手紙は、パウロがピリピにある教会に宛てて書いたもの。
この教会はパウロによって建てられたヨーロッパ初の教会。パウロにとって親しみのあるこの教会から経済的支援を受けて、パウロは宣教活動をしていました。
この手紙の別名は「喜びの手紙」とも言われています。しかし、この手紙はパウロが獄中から書いた手紙なのです。
この個所を読むと、福音を伝える人には、正しい心を持ってする者と、そうでない人たちがいる事が書かれています。
驚く事に、パウロはその両方、良いと言っています!
見せかけであろうとも、真実であろうとも、キリストが宣べ伝えられているのであれば、喜んでいるというのです。
イエスさまを伝える心の状態が、真実であろうと、そうでなかっても良いのです。
どういう事でしょうか。
何となく、イエスさまを伝える心の状態は、愛を持って、正しいもの、哀れみの心を持って、仕える心・・・などと考えてしまいます。
党派心を持って、ねたみや争いの心を持ったままでも・・・大丈夫なのです。
この個所を読んだ時、思い出した事があります。
私が教会に導かれ求道中の時の話です。導かれた教会は家から片道2時間もかかる教会でした。
私の母親が所属している教会は家の近くにありました。何となく母親と同じ教会に行くのが照れくさい思いがありました。
私は、家チカの教会ではなく、2時間かけて毎週教会に通っていました。そして御言葉に触れる度に、もっと聖書を知りたい!と思うようになったのです。
毎週の礼拝は導かれた教会へ行き、聖書勉強を母親が通っている教会で受ける事になりました。
聖書を知りたいという思いと、素直になれない思い、両方を持って学びを受けました。
そして回数を重ねるうちに、終盤になりました。牧師先生が「信じると告白しないと、分からない事が多いし、経験出来ないこともある」と言われました。「いやいや、信じていないのに、信じるなんて言えません」と言うようなやり取りが続き、
最後の方は先生が「信じるって言いなさい」と強く何度も言われました。それで私は腹が立ってしまい、帰りました。
母親が通っていない教会であれば、先生に文句を言ったと思います。家に帰り母親に「もう絶対にあの教会には行かない。”信じるって言いなさい”っておかしくない? 牧師先生としておかしくない?」と文句を言いました。
母親に言われたのか、母教会の先生に言われたのか忘れましたが、
「その先生とあなたが合わなかっただけで、あの先生を通して救われる人もいる。あの先生にしか救えない人がいるかもしれない。現に沢山の人があの先生を通して救われている。」
私は腹を立てながらも、すごく納得しました。
確かに、私も「信じるつもりはないんですが、聖書勉強したいです」というスタンスで学んでいました。生意気だったと思います。
そして、今日の聖書の箇所を読んで・・・
「そうだよな~~」と妙に納得しました。
私の目に、
「あの人の伝道は間違えている」「あの人の伝道には愛がない」「あの人の信仰は偏っている」「あの人がクリスチャンだって・・・」
この様に映ったとしても、それは「私の目での判断」です。
私が批判的に見えている方を通して、救われる人もいるはずです。その方の言葉に、心が引っ掛かかり、立ち止まる人がいるかもしれません。
主の目と私の目は違います。
主の目から見たら、私が「あの人は・・」と思っているあの人より、私の方が遥かに不足なものが多い可能性があります。
私も正しくないし、私も愛が足らないし、私も自分の利益を求めているし、私も偏っているのです。
私も、他の人から見たら「あの人がクリスチャンだって・・」と思われている可能性があります。
どの様な人でさえ、アンバランスな信仰、不足な愛しか持ち合わさず、偏った信仰を持っているのです。
私が評価するのはおかしな話です。
だからと言って、何も考えずに、気の向くままにして良いのかと言うと、そうではないです。
伝道も、信仰生活も、主に祈って行うべきです。
自分が持てる最大の愛を持ち、自分が持てる親切心で、自分が持てる哀れみの心を持ち・・・
主にあって整えられていくべきであり、成長していくべきです。
自分の目で判断せず、主が見るように私も人を見れるようになれますように・・・
今日も、主にあって一歩成長する日をお過ごしください!