祈りに対する思い違い【ヤコブ4:8a】

2022年

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

ヤコブ4:8a

クリスチャンの友達と話している時に「祈ろうか迷う時ってない?」と聞かれました。

「えー-祈るかどうか迷う事ってあるの? えーどんな時??」と聞いたら・・「えー私は沢山あるけど・・ないの?」と言う。

「何だろ・・?? 自分の欲100%だ!と感じてる事とか・・?」と聞いたら

友達は笑って「違うよ~! 自分の欲100%の時は、とりあえず祈る(笑) もしかしたら与えられるかもしれないし。 例えば、買おうかどうか迷ってる時、祈るかどうかも迷うし、疲れてる時、教会に行くかどうか祈るのを迷う・・もっと言えば、探し物をしてる時も、祈ろうかどうか迷う💦」

「あー-何となく答えは分かってるけど、祈って止められたら嫌だから祈れないってこと?(笑)」と聞くと、「そう!それ!」

「探し物をしてる時に、どうして祈るか迷うの??」と聞いたら・・

「祈って、見つからなかったら嫌だから・・」と。

「あーなるほど! 分かる・・気もする・・・でも何か悶々とする・・」と言う会話でした。

この会話を通して、「祈り」ってなんだろう? と改めて黙想する時間を持てました。

欲100%の祈りは、答えられたらラッキーで、答えてもらえなくても「やっぱりね💦」と自分の中で納得がいくんだと思います。

しかし、「探し物」は自分の欲がない場合が多いだろうし、困っている状態。助けて欲しい状態。

欲とは少し離れて、心の中がフラットな状態。その状態で主がもし自分の祈りに答えてくれなかったら・・・自分の中に主に対する疑心が一つ出来てしまう・・・

疑心が生じてしまうぐらいなら、祈らず自力で何とかする方が心が楽・・・昔、私の頭にもそのような考えが浮かんだ事がありました。

でもこれって、私の祈りに答えてくれれば、主は存在すると感じ、私の祈りに無言であれば、主の存在が不確かなものとなる・・という事。

もっと言葉をまとめると、私の願いを叶えれば主は存在する。

私の主権により主の存在が決まるのです💦

多分・・教会で「ずっと〇〇を祈っていました。主はこのような方法で導いて下さり、祈りが叶えられました。」というような証を聞くからかも・・

祈って、それに答えられたら、自分は主の御心通り歩んでいる事が出来ており、祈って、答えられなかったら、御心ではない・・自分の思いが御心に反してしまっている・・と考えてしまっているのかもしれません。

私たちは、一つの祈りに一つの「正解」しかないと何となく勝手に思っています。

目の前の祈りに答えられたら、勝手に「これが神の御心だったんだ」と判断してしまっています。

私たちは、限られた時間軸、限られた情報の中でしか生きられないのです。

5年、10年、100年後、何が起こるのか、私たちには分からないのです。

主は無限大です。

私たちは「今」の視点で物事を判断しますが、主の視点は「永遠」です。

今起こっていることも、主は永遠の視点で見ておられるのです。

私たちの理解を超えた目的を、主は持っているのです。

私たちは100年も生きれない存在です。主のスパンは私たちのスパンより遥かに長い・・

私たちにとって、「祈り」は、答えられるか答えられないかを重要視してしまいがちです。

主が求める祈りとは、「主との対話であり、交流であり、霊的呼吸」です。

私たちは、呼吸をしなければ死んでしまうのと同じように、霊的呼吸である祈りを止めれば、私たちの内なる人は瀕死状態に陥るのです。

クリスチャンにとっては、祈るべきかどうかではなく、祈らないわけにはいかないというのが、祈りだと思います。

真摯に主と交わろうと、時間を決めて祈るのも大切です。しかし、長い時間を取って向き合う事だけが、祈りではないです。

祈りを生活の中に溶け込ませるべきです。

1人であれやこれやと、頭で考える時、主も参加してもらうのです。

「今日は、まずあれをして、次に、、これをして。あー、ずっと出来ていないあれはどうしよう・・」と頭で考える時、

「主よ。今日はまずあれをしたいと思います。そして次にこれをしたいと思っているのですが、どうですか? ずっと出来ていないあれも気になっています。どうしたら良いでしょうか・・私に知恵を与えて下さい。」という祈りに変えるのです。

今日は祈りを、自分の生活の中に溶け込ませ過ごしたいと思います。

今日も、主と共に歩む一日となりますように・・・!!

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