わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
ヨハネ10:27
今日の御言葉・・・
「私たち羊は、主の声を聞き分ける」と書いています。羊とは私たちを意味します。
「羊は、主の声を聞き分ける」とは、本当でしょうか?
主は、私たちに瞬間瞬間、語られているとよく聞きます。声を聞いた事がありますか?
実際の「音のある声」を聞く人もいるかもしれません。
自分の思考に反して、心に声が思い浮かぶ事を「主の声を聞く」という場合もあります。
また音としてではなく、自分の思考に反して、「思い」が自分の体を駆け巡る事もあります。
また祈りの課題に対して、第三者の口を通して語られることもあります。
聖書の御言葉を通して「あ、これだ!」と感じる事もあります。
また自然を通して、気付くという方法で「主の声を聞く」事もあります。
また、絶妙なタイミングで事が運ばれる時、「主の導きを感じる」という事もあります。
どの様な方法にしろ、それらが「主の御心」「主の答え」「主の計画」「主からの示し」だと、どう判断しますか?
もしかしたら、私が勝手に「主の御心だ!!」と思っているかもしれません・・・
どうすれば、確信を持って「これが、主の御心だ!」と判断できるのでしょうか?
答えは、私が「主の声」を知っていれば、確信をもって判断できるのです。
オレオレ詐欺のような、子どもを装う詐欺が流行っています。
どうして騙されるのでしょうか?
親子が会話が久しぶりだったから、成長した子どもの声と、衰えた親の耳に問題があるのではないでしょうか? また電話を通して、子どもの声が違って聞こえるという事もあると思います。
もしかしたら、年老いた親は、普段から子どもの電話をずっと待っていたからかもしれません。
しかし、離れて暮らしていても、電話を通して親子の会話がなされていれば、親は詐欺師なのか実の子どもなのか気付く思います。
骨董品を取り扱う人や銀行員が、「偽物・偽札」を瞬時に見分けられる秘訣を知っていますか?
彼らは毎日、本物に触れているからです。
毎日、本物に触れているから、偽物は瞬時に感覚で分かるのです。
私たちも同じです。毎日、本物に触れることが必須です。本物の真理である御言葉に触れ、御言葉を自分の肉と血にするのです。そうすれば、私達は、はっきりと主の御声かどうかを、聞き分けられる様になるのです。
御言葉の朗読を、日々心がけ、「主の御声を聞き分ける霊的な耳をください。」と祈るのです。
祈りの時間を持つことにより、主がどういったお方なのか、深く知る事ができます。
そうすれば、私たちも、本物の「主の御声」を聞き分ける事が、自然と出来るようになるのです。
私たちは、色んな顔を持っています。
私の場合、子どもの母であり、夫の妻であり、子どもの学校へ行けば保護者であり、ある人にとっては友達です。昔からの友達にとっては、互いに実年齢より若い感覚の友達であり、最近知り合った人にとっては、年相応の友達であり、ひと年代年下の人から見たら、お姉さんであり、近所の子どもから見たら、おばちゃんであったり・・・また、嫁であったり、実親にとってはずっと私は子どものままです。
同じ私でも、会う人によって多少の付き合い方が変わります。言葉使いや、冗談の有無も、表現方法も違います。
主も同じだと思います。私に語って下さる主と、あなたに語って下さる主は、同じ主であっても、少し違うかもしれません。
だから、主の私への語り掛けと、あなたへの語り掛けは違うと思います。
私は凄くお笑いが好きです。ゲラゲラと笑えるお笑いも好きですが、クスっと笑えるお笑いが一番好きです。(笑点のような・・)
主は私の好みを良く知っておられます。
だから、これが主の導きなんだ・・・と感じる時は、クスっと笑える要素が入っています。
毎回、導きにクスっと笑える要素が入ってる訳ではないのですが、ここぞという時は、必ずクスっと笑える導きがあります。
大事な導きの時、クスっと笑える導きを感じたら「合図付きの導き、ありがとうございます。」と返答します。
自分と主だけの合図があれば、間違いなく感じる事ができます。
私は、主とのこの関係が崩れないよう、今日も聖書を読み、祈る時間を持つようにします。
主との時間を持ち、主の導きを逃がさずキャッチできるようになりたいです。
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)