ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエオマという村に行く途中であった。
このいっさいの出来事について話し合っていた。そして、ふたりで
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
ルカ24:13-16
イエスさまが十字架に架かり、お墓に葬られてしまいました。
女たちが墓に行ったが、墓の石は開けられ、イエスさまは墓に居なかった。天使が現われ、蘇られたと聞いた。これを弟子たちに伝えに行ったが、誰も信じようとしなかった。
2人の弟子が、イエスさまを無くした無力感、失望落胆から、エルサレムを離れ郷里に戻ろうと歩いていた時の話です。
この2人の弟子は、イエスさまが十字架に架かった事をその目で見ました。そして女たちの証言についても知っています。しかし、郷里へと戻ろうとしていたのです。
イエスさまが現われ、彼らと長く話をし、食事までされました。
彼らは以前から何度も、主から十字架の死とよみがえりを聞いていたが、信じていなかった。
信じられなかったのかもしれない。常識ではありえない発想だったから。
「そのままのきみがすき」 (著者 マックス・ルケード)という絵本を知っていますか?
ある村に5人の兄弟が住んでいました。お父さんもお母さんも早くに亡くし、兄弟だけで生活していました。
お城の王様がその5人の話を聞き、王様の子どもとして迎えるということになりました。子ども達は大喜び。王様に何かプレゼントしなきゃ!上のお兄さんは大工道具で木を彫り、上のお姉さんは奇麗に絵を描きはじめました。下のお姉さんは楽器と歌で音楽をプレゼントしようと練習を始め、下のお兄さんは難しい本を読んで王様に聴かせてあげようと思いました。
けれども一番下の妹は何もできることがありません。お兄さん、お姉さんたちに教えてもらおうにも取り合ってくれません。
何もすることがなくいつも通り水汲みに行くと、そこに旅のおじさんが話しかけてきました。「私のロバに餌をやってくれないか」そして二人はしばらくお話をして過ごしました。話をしているうちにこのおじさんこそが王様だということに気づきました。
「王様……ごめんなさい。私は何もプレゼントできないの」と言うと王様は「君は私と一緒にいてくれた。そしてわたしを好きだと示してくれた。私はそのままの君が好きだよ」と言い、王様と子ども達は幸せに暮らしたそうです。というお話をしました。
両親を亡くした子どもたちは、王様の迎えを心から待ち望んでいました。
スッゴク期待していました。なのに、どうして王様だと気付かないのでしょうか?
絵本の子どもたちが王様に出会った時、2人の弟子が、主に出会った時、両方とも全く関係のない事をしている、考えている最中ではなかったのです。両者とも、自分たちが待ち焦がれている対象(王様・イエスさま)を心で思っている最中、出会ったのに気付かなかったのです。
心には、王様を思っていても、目先の準備・もてなしに心を奪われた状態でした。また、もしかしたら王様が、自分たちが創造した姿で現れなかったからかもしれません。
弟子たちも心では、イエスさまを愛していても、今、自分の心が感じる喪失感しかなかったのです。
私たちの目や、心は、愚かだと思いませんか?
見ていても見えていないのです。 自分の心に違うものが居座わらせているから。
固定概念かもしれないし、目先のことかもしれない。自分の常識や想像、期待とは違うからかもしれません。
だから、私たちは本当に気を付けないといけないのです。
今日も、主が私たちに語って下さっているハズです。
主の御声に、心と耳を傾ける一日としましょう!
私も、心を落ち着け、主を待ち望む一日と心がけます!
幸せな一日となりますように・・・