主の導きが分からない時…【ヨハネ15:5】

2022年

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

ヨハネ15:5

 

祈っても導きが分からない時ってありますよね?

どうしていますか?

私は、祈っても導きが分からない時は、「現状維持」するようにしています。

まだ「主の時」ではないという判断です。だから、今ある状態をそのまま留まりながら待つようにしています。

導きを待つのに期限がある場合(大学の願書を出すとか、いつまでに決めないといけない場合)、ギリギリまで祈ります。それでも導きが分からない場合・・・

私は、最後にもう一度祈ります。「これを決めないといけない時間が目の前に迫っています。ずっと導きを得たいと祈っていましたが、主の導きがわかりません。主よ。私の望みを選択させて頂きます。万一、私が選んだ方が御心でない場合は、私が分かるように道を塞いでください。」

そして、自分の願っている、望んでいる方を選択するようにしています。

 

主はぶどうの木で私たちは枝。ぶどうの木も、その枝も同じ一つの命です。

枝は離れず、ぶどうの木と生きなければならないのです。

離れず共に生き、ぶどうの木から栄養を得る事により、私たちは実を結ぶことが出来るのです。

 

私たちは時折、人生に迷う時があります。主の御心が分からない時があるのです。

しかし、枝である私たちは、ぶどうの木にくっついていればいいのです。

目には見えなくても、何も感じなくても、ぶどうの木から栄養は、毎日必要な分だけ送られているのです。

私たちが今日も生きているという事が、今日も主から今日の分だけ栄養が送られている証拠です。

主から離れず、主から栄養を貰うことにより、実を結ぶことが出来るのです。

 

「御心が分からない」と孤独になる必要はありません。信仰を疑う必要もありません。

現状維持するにしろ、自分の希望通り選択するにしろ、

大切なのは、今日も変わらず主が共にいて下さると意識しながら、今日の分を生きる事です。

 

何を選択するにしろ、主を基準とすることが主に喜ばれることです。

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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