15 神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車と大軍がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう」と言った。
16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多いのだから」と言った。
17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
二 列王記6:15-17
イスラエルとアラムが戦っている時、
エリシャはイスラエルの王に何度となく使いを送り、「あの場所は通らないように」などと言う警告を伝えさえた。イスラエルの王はそれを守りアラムの攻撃から守られていました。 アラムの王はエリシャに腹を立て、馬と戦車、大軍を夜のうちに送り、エリシャのいる町を包囲させた場面です。
絶体絶命とはこのような状況だと思います。
何の武器も軍も無かっただろうし、エリシャの若い召使はパニックに陥ったのではないでしょうか。
普段から若い召使は、エリシャの信仰や預言者としての働きを、目の当たりにしてただろうに・・
慌てる召使の為に、エリシャは「彼の目が見えるように」と祈りました。
召使の霊の目が開かれ、敵の数より自分たちの方が数が多い「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを見ました。
結果的には、エリシャと召使は打たれることはありませんでした。エリシャの祈りでアラムの大軍は打たれ盲目とされました。エリシャによりサマリヤにいるイスラエルの王の元に連れて行きました。エリシャの指導の下、捕まえれたアラムの大軍は殺されることなく、反対に盛大にもてなし、飲み食いさせました。そして彼らを自分たちの主君のもとに戻しました。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかったそうです。
自分の想像を超えるような大きな戦いで敵に囲まれたり、許容範囲を超えるような問題が迫ってきた時、人は恐れを覚えます。
それは目に見えるものだけを見ているからです。でも霊の目が開かれる時に、神が遣わした強力な助けに取り囲まれていることがわかるようになるのです(エペソ1:17~19)。
エリシャの召使の若者は、シリヤの大軍しか目に見えていませんでした。この大軍と自分たちを比べて、もうだめだ、と思ったのです。けれども、エリシャが祈ったように、私たちがしなければいけないのは、
自分と敵を比べるのではなく、神と敵を比べることです。
自分たちの味方の軍勢が、敵の軍勢よりも圧倒的に優勢であることを知ることです。このことによって、私たちの目に見える生活の中でも影響が与えられ、勝利することができるのです。
人は危機に直面すると、現実に襲ってくる敵の脅威にばかり気を取られ、その現実が主に守られていることを見ることが出来なくなります。
ですから、思いもよらない有事が自分に降り注ぐ前から、普段から主に対して開かれた目をもたないと、私たちの信仰は萎えてしまい、一瞬にして「恐れ」に包まれます。
自分の目に映るもの、自分の判断に捕らわれないよう、霊的な目が開かれるように今日も祈りましょう!