心の虚しさの正体【ホセア6:6】

2026年

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ホセア6:6

長男も次男も韓国で通学している今、

日本で夫と2人の生活が始まりました。

これから、どう過ごすか話し合い、

同じペースで聖書を読み、分かち合う時間を持つ事にしました。

今、読んでいるのは「レビ記」…

レビ記って難しく感じます。

今回は、1章から11章まで。

正直、読んで楽しとは感じにくい書💦

でもレビ記は、一言で言えば

「主に近づく為のルール」が書かれています。

そう思ったら大切な書。

1~7章までは、

人間の罪や過失の為の「いけにえ」について書かれています。

人はそのままでは主には近付けない…。

だからこそ、‟代わりとなる捧げもの” が必要。

8~9章を見ると「祭司を任命」しています。

主に近づくには、‟仲介者(祭司)”が必要なのです。

人は、そのままでは主に近づけないのか…

主に近づく為の手順とか、整えが必要…

思ったより細かい…と感じます。

そして10章では

主の栄光が現われ、凄い体験をしたナダブとアビフは、

自分たちの火を捧げ、命を失います。

え…何か怖い…なんて厳しいんだろう…と思いました。

どうしてナダブとアビフの話を記録したんだろう…と思いました。

多分…

自分の ‟良かれと思う信仰” と、

‟主が望まれている信仰” には違いがあるのかも。

自己流の信仰、良心的な信仰、自分の判断は

必ずしも、主が喜ばれる信仰とは限らない…

また「これぐらい大丈夫だろう…」という信仰も。

それを伝えるために記録されたのかも…。

そして11章。

清い・清くない。

食べていいもの、ダメなものが書かれています。

食べ物にまでルールがあるなんて…💦

良いとされている食べ物は、

反芻する動物であり、ひづめが完全に分かれている動物。

両方兼ね備えた動物だと書かれています。

反芻(はんすう)とは、

一度飲み込んだ食べ物を口に戻して再び噛み、消化する生理現象。

わざわざ反芻する動物を選ばれたのには理由があるのかも…

と考えながら、

主は、御言葉を繰り返し思い巡らす事を望まれているように感じました。

何度も思い起こして、心に浸み込ませるのです。

また、ひづめが完全に分かれている動物は、

しっかりと地面をとらえて歩くそうです。

主の道を選び、ブレずに歩む姿かも…。

そう考えたら、

心でいつも主を想い、行動も主に従う。

両方揃った生き方。

信仰は、礼拝の時間だけじゃなくて、

生活すべてに関わりを持つ。

私は…

日常の中で主をどれくらい意識できてるんだろう…と考えさせられました。

そして、ホセアの御言葉を思い出しました。

「私は誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。

全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」

私たちに求められていることは「神を知る事」

もちろん、神を「知る」とは

単なる「認識・情報・知識」としてではなく、

主ご自身を知り、関係を持つ事。

形(礼拝・祈り・聖書)を守ることも大事だけど、

それだけではなくて、

主との関係を持つことを求めている…。

一方的な願いの祈りではなく、

主の御心を知ろうとする祈り。

ふと、自分の心を見つめると、

時々、感じる「虚しさ」や「空っぽ」がある…

これらは、私と主との繋がりが関係しているんじゃないか…

そんな風に感じました。

幼子は、何の心配もせずに生きています。

明日の食事も着るものも。住む場所も。

将来のことさえ心配がない。

だって親がいてるから。

自分を守ってくれる存在がいて、

必要を与えてくれるということだけは知っている。

だから、その親の姿が見えないと不安になります。

一気に心の状態が不安に見舞われるのです。

私も子どものころはそうだったはず…。

夫婦関係や家族関係、友達関係も同じで

人の目には「家族」や「友達」という関係であったとしても

そこに思いや関係がなければ、満たされない…。

「虚しさ」や「空っぽ」は、

繋がり、関係に問題があるように思います。

主への信仰も、

形だけでは満たされない。

でもそこに関係あってこそ、形にも命が入るのでは…!

主が求めているのは

私の ‟正しい行動” だけでなく、‟心のつながり”

主を知るという事は、

主と共に歩むこと…!

今日も、主と共に歩みながら、

さらにもっと、主を知っていきたい!!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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