わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
ホセア6:6
長男も次男も韓国で通学している今、
日本で夫と2人の生活が始まりました。
これから、どう過ごすか話し合い、
同じペースで聖書を読み、分かち合う時間を持つ事にしました。
今、読んでいるのは「レビ記」…
レビ記って難しく感じます。
今回は、1章から11章まで。
正直、読んで楽しとは感じにくい書💦
でもレビ記は、一言で言えば
「主に近づく為のルール」が書かれています。
そう思ったら大切な書。
1~7章までは、
人間の罪や過失の為の「いけにえ」について書かれています。
人はそのままでは主には近付けない…。
だからこそ、‟代わりとなる捧げもの” が必要。
8~9章を見ると「祭司を任命」しています。
主に近づくには、‟仲介者(祭司)”が必要なのです。
人は、そのままでは主に近づけないのか…
主に近づく為の手順とか、整えが必要…
思ったより細かい…と感じます。
そして10章では
主の栄光が現われ、凄い体験をしたナダブとアビフは、
自分たちの火を捧げ、命を失います。
え…何か怖い…なんて厳しいんだろう…と思いました。
どうしてナダブとアビフの話を記録したんだろう…と思いました。
多分…
自分の ‟良かれと思う信仰” と、
‟主が望まれている信仰” には違いがあるのかも。
自己流の信仰、良心的な信仰、自分の判断は
必ずしも、主が喜ばれる信仰とは限らない…
また「これぐらい大丈夫だろう…」という信仰も。
それを伝えるために記録されたのかも…。
そして11章。
清い・清くない。
食べていいもの、ダメなものが書かれています。
食べ物にまでルールがあるなんて…💦
良いとされている食べ物は、
反芻する動物であり、ひづめが完全に分かれている動物。
両方兼ね備えた動物だと書かれています。
反芻(はんすう)とは、
一度飲み込んだ食べ物を口に戻して再び噛み、消化する生理現象。
わざわざ反芻する動物を選ばれたのには理由があるのかも…
と考えながら、
主は、御言葉を繰り返し思い巡らす事を望まれているように感じました。
何度も思い起こして、心に浸み込ませるのです。
また、ひづめが完全に分かれている動物は、
しっかりと地面をとらえて歩くそうです。
主の道を選び、ブレずに歩む姿かも…。
そう考えたら、
心でいつも主を想い、行動も主に従う。
両方揃った生き方。
信仰は、礼拝の時間だけじゃなくて、
生活すべてに関わりを持つ。
私は…
日常の中で主をどれくらい意識できてるんだろう…と考えさせられました。
そして、ホセアの御言葉を思い出しました。
「私は誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」
私たちに求められていることは「神を知る事」
もちろん、神を「知る」とは
単なる「認識・情報・知識」としてではなく、
主ご自身を知り、関係を持つ事。
形(礼拝・祈り・聖書)を守ることも大事だけど、
それだけではなくて、
主との関係を持つことを求めている…。
一方的な願いの祈りではなく、
主の御心を知ろうとする祈り。
ふと、自分の心を見つめると、
時々、感じる「虚しさ」や「空っぽ」がある…
これらは、私と主との繋がりが関係しているんじゃないか…
そんな風に感じました。
幼子は、何の心配もせずに生きています。
明日の食事も着るものも。住む場所も。
将来のことさえ心配がない。
だって親がいてるから。
自分を守ってくれる存在がいて、
必要を与えてくれるということだけは知っている。
だから、その親の姿が見えないと不安になります。
一気に心の状態が不安に見舞われるのです。
私も子どものころはそうだったはず…。
夫婦関係や家族関係、友達関係も同じで
人の目には「家族」や「友達」という関係であったとしても
そこに思いや関係がなければ、満たされない…。
「虚しさ」や「空っぽ」は、
繋がり、関係に問題があるように思います。
主への信仰も、
形だけでは満たされない。
でもそこに関係あってこそ、形にも命が入るのでは…!
主が求めているのは
私の ‟正しい行動” だけでなく、‟心のつながり”
主を知るという事は、
主と共に歩むこと…!
今日も、主と共に歩みながら、
さらにもっと、主を知っていきたい!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)
