主の恵みは尽きることがなく、その憐れみは尽きることがない。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です。
哀歌3:22-23
時々、クリスチャンの方に
「聖書って結構…読みにくい」と言われます。
私もそう思った事がありました!
初めて聖書を読んだ時、
どうして聖書は登場人物の感情や心情の
描写をしていないんだろう…と思ったのです。(詩編などは別として)
もっと小説のように書いてくれれば、
もっと、のめり込んで読めそうなのに…。
聖書は「叙情的」ではなく「叙事的」記述なのです。
この様に書かれた、登場人物の感情を書かれなかった理由は何だろう?
初めて聖書を読んだ時から、長く疑問に思っていました。
自分なりの考えを記録したいと思います。
聖書を読みながら、私たちはつい登場人物の感情に目を奪われがちになります。
「悲しい」「悔しい」「嬉しい」…
人は、物語を読む時、感情移入するのです。
でも、聖書は小説のように感情を前面に出さず、
叙事的に、出来事や事実を淡々と記録する形式で書かれているのです。
多分それは、
「主の摂理と出来事の連なりを正しく理解するため」だと思います。
感情に流されると、
主の計画や御手の働きを見失ってしまうと思います。
例えば、ヨセフの物語。
彼は兄たちに売られ、奴隷としてエジプトに渡り、
さらに冤罪で投獄されます。
私たちの感覚では、「人生終わった…」と思うような最悪の状態です。
しかし、聖書は淡々と事実を記録するだけで、
ヨセフの悲しみや怒りを強調しません。
しかし、そこに繰り返し記されるのは、
「主はヨセフと共におられた」ということ。
この叙事的な記録により、
私たちは感情に振り回されることなく、
主の導きや摂理に気付くことが出来るんだと思います。
ヨセフは奴隷として扱われ、投獄されましたが、
最終的にはエジプトの宰相として用いられ、
家族や多くの人々を飢饉から救います。
出来事の連鎖の中で主が共に働いていることが、
はっきりと見る事が出来ます!
同じように、
エステル記も叙事的に書かれています。
エステルが孤児となり、モルデカイに養われたこと。
王宮に選ばれ、ハマンの陰謀からユダヤ人を守ることになったこと。
小説のように感情が前面に出ていなくても、
「もしエステルが孤児にならなかったら」
「もしハマンがプルを引かなかったら」と考えると、
主の計画の精緻さに感動です!!
叙事的に記録されていることの大きな恵みはここにあります。
・感情的な描写よりも、出来事を通して「主がどう導いたか」が強調される。
・人の感情が主役ではなく、主の摂理、計画、恵みが主役。
・困難や試練の中でも、主が共におられることに気付ける。
・「偶然」に見える出来事の背後に、主の御手が働いていることに気付ける。
・感情表現は、文化や時代で受け止め方が変わる可能性もある。
この叙事的な記録は、
私たちが日々の困難や悲しみの中で、
主の御手を信じる力を与えてくれると思います。
そして私が最近思う、あえて聖書を叙事的な記述にされたのは、
私たちに「想像する余白」を与える為だと思います…。
聖書に出てくる人物が
「この時どのような気持ちだったんだろう?」と想像し
自分の人生に重ねられるようにする為だと思います。
実は、聖書は「読みにくい書物」ではなく
自分で想像し、自分の経験や人生を重ね合わせ、
聖書の人物を通して、主の摂理を知っていく…
聖書は、自分の人生に生きた言葉となるのです。
事実を淡々と伝える叙事的な記録だからこそ、
読む度に新しく感じ、
そして私たちの心に、生きた言葉として届くのだと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)