神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。
ローマ8:28
夏休みも終わって、子どもは学校が始まりました。
PTA活動で学校に行くようになり
保護者とも久しぶりの再会。
会う度に「聞いて~💦」と自分の今ある問題について
話す保護者Aさんがいます。
口癖のように「もう…最悪じゃない?」と…。
その度に「えー全然、最悪じゃない!」と答えます。
Aさんは「LBは良いよね~そう思えて…」と言うのです。
私は聖書に登場する人物で、
ヨセフが一番好きなのですが、
ヨセフは10代で外国に奴隷として売られたのです。
それこそ、最悪な状態です。
奴隷ですから、自分に自由はなく、
環境を自分で変えたり、意思決定が出来ない状態。
ヨセフ物語を読むと、
ヨセフは奴隷となり兄たちと再会するまでの22年間。
ヨセフがどのような思いで過ごしたのだろう…
聖書には少しヨセフの感情を読み取れる部分もありますが、
不安な思いや悲しみなど、
心情的な記録はあまり書かれていないのです。
それとは別に、
何度も「主はヨセフと共に居られた」と記載されています。
ヨセフが奴隷の家に居る時も、牢獄に入れられた時も。
創世記に4回も同じ事が書かれています。
しかも、主が共に居られ「ヨセフが成功する」と続いているのです。
この言葉を読む度に、これは途轍もない「主の祝福」です。
私たちの目には、ヨセフは「最悪な人生を強いられた」と思います。
クリスチャンであれば「主は私を忘れたのではないか?」と
思いたくなります。
主の不在を感じてしまいます。
私たちは自分の目に良いものを「祝福」と認識してしまい
自分の目に良くないもの・状態を「試練」と
受け取ってしまう…💦
でもヨセフの話を読むと、
ヨセフは最悪な状態だったのではなく
エジプトの地で大きな「祝福」を受けたのです。
…という事は、
私たちの目や価値観で「祝福」なのか「試練」なのか
判断できないという事なんだと思います。
モーセも、逃亡者となり荒野で羊飼いとなり
40年も過ごし、人の目にはモーセは「終わった人生」なのです。
しかし、主は共に居られ、燃える柴の中から召し出されたのです。
ダビデも、義理の父サウル王に命を狙われ、荒野で逃亡生活。
洞窟や荒れ地で必死に隠れる「最悪の生活」。
しかしダビデも「主が彼と共におられた」と繰り返し書かれています。
逆境の中で信仰が深められ、後にイスラエル王となったのです。
エステルは孤児となったのです。
しかし、主のご計画の中で王妃とされ、
民族を救う器となりました。
…私たちの目に「最悪の環境」は「祝福の始まり」…
ですから、私たちが「最悪だ…」と感じる出来事は、
主の御手の中では「祝福の始まり・入口」だと思います。
ヨセフは奴隷として、モーセは逃亡者として、
ダビデは洞窟で身を隠し、エステルは孤児として──
人の目には絶望の状況でした。
でも、すべての背後で主の御手が確かに働き、
やがて大きな祝福へと導かれ実を結びました。
ですから、今、私たちが直面している困難や不安も、
単なる偶然や無意味な試練ではない!!
主が私たちと共におられ、
私たちを用いるための準備の時であると信じます!!
今日、私たちが経験している苦しみや孤独は、
決して無駄ではないのです!!
むしろ、その中で主の御手に信頼し、
「今、ここで学ぶこと」「今、ここで耐えること」が
未来の祝福の実へとつながっていくのです。
私がまず気を付けることは、
自分の目や感覚で「祝福か試練か」を判断せず、
主の御手に委ねる…!!
ここから始めようと思います!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)