主の性質を知れる時【詩篇105:17-19】

2025年
Holy Bible with pages open

主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った。
彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。

詩篇105:17-19

私は、創世記39章が好きです。

主がヨセフを祝福している事が書かれています。

「主が共にいてヨセフは繁栄した」

「主が彼のすることを成功させた」

「主はヨセフのゆえに家を祝福した」

「主が彼に慈しみを示した」

「主が共にいて成功させた」

ヨセフは兄たちに妬まれ、裏切られ、

エジプトへ奴隷として売られました。

その後も無実の罪で牢獄に入れられるなど、

数々の理不尽な苦難に直面します。

けれども、聖書は彼を「繁栄していた」「祝福されていた」と記録しているのです。

この39章から、主の性質を感じます。

私たちが「主の祝福」と感じるものは、

少なくとも「奴隷」の状態とは正反対の状態です。

物事が上手くいき、幸せを感じる瞬間。

私たちは「主の祝福」を感じるのです。

しかし、創世記39章を読めば、

私たちが思っている主の祝福は、

主の祝福の一部なんだと思えるのです。

「主の祝福」とは

喜びに満たされるものだけではない…のです。

常識で考えれば、

奴隷や囚人の立場にある人が「祝福されている」とは思えません。

しかしヨセフがどこにいても祝福されていたのは、

彼が常に主と共にあったからです。

何故ならば、

理不尽な苦難や試練、忍耐、孤独や悲しみ、思ってもない困難にも、

その背後には、主の人格や目的、計画が秘められているからです。

どのような状況に直面しても

その背後には主の大きな計画があるというのが39章から分かります。

私たちが人生で出会う、全ての出来事に、

主は存在されるのです。

そして全ての出来事に「主の性質」が含まれているのです。

「主の性質」とは単なる性格ではなく、

「主がどのようなお方であるか」という意味。

私たちの人生の出来事を通して

私たちは、主がどの様なお方であるのかを、知ってく事ができるのです。

ヨセフのように、たとえ奴隷になったり牢屋に入れられても

その中に主の性質を見る事ができるのです。

結果、悪を善に変えられる主は、

様々の出来事を通して、私たちを祝福して下さり、

私たちは、人には出来ない主の御業を経験する事ができるのです。

私たちは、自分の状況を見て

「主の祝福だ」「主は私に怒っているかも…」と判断してしまいます。

私の視点と主の視点は違う。

多分、問題は置かれた状況に心を奪われず、

主と共に過ごすことに集中する…(ことだと自分に言い聞かせてます)

最終的にヨセフは、エジプトで高い地位に就き、

飢饉の中で父ヤコブの家族を救います。

これは自分の家族を救っただけの話ではないのです。

ヨセフの困難は、

イスラエル民族の存続に関わる重大な使命を担っていたのです。

…奴隷に売られた時、

ヨセフには悲しみと不安しかなかったと思います。

それが、民族を救うプロジェクトの始まりだなんて

思いもしなかったはず。

私は、困難な中で働かれる主を信じる。

主と繋がろう…

主を見上げよう…

主には何かしらの計画があると信じる。

今日も、主の祝福の中で過ごそう…。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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