3 エステルが再び王に告げて、その足もとにひれ伏し、アガグ人ハマンがユダヤ人に対してたくらんだわざわいとそのたくらみを取り除いてくれるように、泣きながら嘆願したので、
王はエステルに金の笏を差し伸ばした。そこで、エステルは身を起こして、王の前に立って、
言った。「もしも王さま、よろしくて、お許しが得られ、このことを王さまがもっともとおぼしめされ、私をおいれくださるなら、アガグ人ハメダタの子ハマンが、王のすべての州にいるユダヤ人を滅ぼしてしまえと書いたあのたくらみの書簡を取り消すように、詔書を出してください。
どうして私は、私の民族に降りかかるわざわいを見てがまんしておられましょうか。」エステル8:3-6
昨日からエステル記を読んでいます。
心に留まったのは、
エステルは、ユダヤの民族を救う為に、
断食を持って祈り、勇気を持って王に伝えたのです。
しかし「勇気を持って」というのは「大胆に」ではなく…。
「もしも王さまのお許しが得られ、
王さまがよろしければ、私の願いを聞き入れて…」という風に
エステルは怖さを感じながら王様に伝えた…。
そして今日の御言葉を見ると
エステルは王に感情的に訴えかけています。
王の足もとにひれ伏し、泣きながら嘆願したのです!
エステルのように、足元にひれ伏し、泣きながら懇願…。
足元にひれ伏すというのが、
「自分は相手より遥かに下である」と示す最大の敬意と服従。
自らの命も、王の手にあるということを身体で表す行為だと思います。
はぁ…私はエステルのような
思いで自分の民族の為に祈っただろうか…
人の為にここまで祈っただろうか
モーセもそうです。
モーセは神の前に立ち、
「彼らの罪をお赦しください。もしそうでないなら、
私の名をいのちの書から消してください」と
自らのいのちを差し出すようなとりなしをしました…。
エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれる人。
彼は民の堕落と滅びを深く悲しみ祈り、預言し、とりなしました。
パウロも。
ユダヤ人同胞の不信仰と教会のために涙をもってとりなしをしています。
イエスさまも何度も泣かれています…。
とりなしの祈り…。
エステルから学ぶのは
エステルは大胆にも、王に願い出たのです。
しかし、
「大胆=恐れがない」ではなく、
エステルは「恐れながらも一歩踏み出す勇気」を持っていたのです。
エステルの祈りは、勇気と恐れが共存していたのです。
エステルの姿に、私は静かに問いかけられている様に感じました。
「あなたは、誰かのためにどれ程多くの涙を流したか」
「あなたは、とりなしの祈りを、
自分のいのちを懸けるような真剣さで祈ったことがあるか」
…私は正直、自信を持って「はい!」とは言えない…。
日々の忙しさの中で、祈りが ‟習慣” になっていたり、
誰かのために祈るときでさえも、
どこか「安全な距離」を保っていたかも…。
聖書に出てくる人物たち、
他人の痛みを ‟自分のこと” として受け止めていました。
だからこそ、涙がこぼれ、
だからこそ、命をもかけるほどの祈りが生まれたんだと思います。
主よ。
私にエステルのような勇気をください。
恐れながらでも一歩を踏み出せる信仰を。
そして、
モーセやエレミヤのように、
涙をもってとりなす心を、もう一度与えてください!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)