このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
ところが、このしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」マタイ18:23-35
今日、読んだ聖書の箇所です。
「無慈悲なしもべのたとえ」
このように文字として読めば「何て酷い人なんだ」
「憐れみがない人…」と感じます。
もし、自分がこの人だったらどうだろう…と思いました。
決して返済する事が出来ない程も借金…💦
持ち物全部も売って返済するように命じられたら…
しかし主人が借金を免除してくれたのです。
九死に一生を得るような思いをしたのです。
本当に感謝を感じたと思います。
しかし、このような莫大な借金をしていたのであれば
もともと生活が苦しかったかもしれません。
借金がなくなった事は感謝だけど。
自分の財産が増え、豊かになったのではないのです。
そして思い出したのです。
自分が貸していた人からお金を返してもらおうと。
この返済があってこそ、自分は少し豊かになるのです。
もし、私に何か大きなプラスとなる利益があれば、
その一部を人に分け与える事ができたかもしれません。
しかし、この憐みのない人の立場で考えると
借金がなくなっても、実際に自分の懐がプラスになったのではないのです。
「赦された=豊かになった」わけではなく、
ようやくゼロ地点に戻れた にすぎなかった…💦
どちらかと言えば、まだマイナスのまま…。
だから、自分の懐をプラスにしたい!と思たんだと思います。
文字にしたり、客観的にみれば
この憐みのない人はひどい人だと思えると思います。
しかし、私たち人間の中には
人には厳しく、自分には甘い…
そのような思考が自分の中にも潜んでいると思います。
現に、私たちは主に罪赦され他にも拘らず、
自分に少しでも害を与える人には厳しい。
許せない人がいる。
嫌いだと思う人がいる。
受け入れたくない人がいる。
私たちは、プラスになれば、少し心に余裕ができ
周りにも目が行くかもしれません。
しかし、自分がマイナスになる事は嫌なのです。
損はしたくない…。
自分の中から減っていくという事は、
私たちには難しさがあります。
しかし、自分のモノが減る=「損」というのが私たちの考え。
しかし、
主の法則は違うのです。
私たちの考えてと全く逆です。
与える事に意味があるのです。
信仰生活とは、自分が主から頂いた恵みを
人々に分かち合う事によって、
より一層、自分自身に主の恵みが浸透する。
人々に分かち合う事によって、
私たちは、主の愛に染まっていくのです。
人々に分かち合う事によって、
主の心を知っていくのです。
人々に分かち合う事によって、
主の豊かさを知っていくのです。
…主に頂いた祝福を、隣人にも分かち合うことが
豊かになっていくという法則…。
主が私を赦して下さったように、私も隣人をゆるしたい。
主が私の愛して下さったように、私も隣人を愛したい。
主が慰めて下さったように、私も隣人を慰め励ましたい。
私はもっと…豊かになりたい…
主の愛に染まりたい!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)