この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」ルカ10:36-37
今、学校の行事が重なっており、またPTA総会もあり…
いくつもの資料作りに追われています💦
総会の資料では、一年間の行事を記載しないといけません。
保護者サークルの活動日を記載するのに、
そのサークルのグループラインに問いかけました。
「総会の資料作りで、サークルの一年間の活動日を知りたい」
「至急、いつ活動したのか教えて欲しい!」
2日待っても、誰からも返信が入りません…。
もう一度、再送し
「みんな忙しい中、申し訳ないけど、活動日を教えて下さい~!」と送っても
既読はついても返信がない…。
もう一度「ちょっと念の為、聞くけど。私、嫌われてるの?(笑)」と送ると
「ごめーん!(笑) バタバタしてた!」とか
「丁度、ライン読んだ時は外で…忘れてた…💦」と。
そしてやっと、皆が活動日を振り返り調べてくれました。
他のグループでも同じです。
問いかけても、答えてくれる人は大体同じ。
そして何も発言しない人もいます。
多分、その心理はこうだと思います。
「誰かが答えるだろう…」
もちろん、私の中にもこんな考えがあります。
答えてあげたいけど、今忙しくて…
後で…と思いながら忘れたり。
でもまあ、誰か答えるだろう。誰かがするだろう。という思い。
これはライングループだけでなく、
社会の中、学校の中、職場の中にもあると思います。
そんな事を考えていると、
良きサマリヤ人の話を思い出しました。
強盗に襲われた人の横を通り過ぎた
祭司・レビ人・サマリヤ人の話。
この話をされた経緯は、
ある律法の専門家が「永遠のいのち」について質問をしたのです。
そして「私の隣人とは、誰のことですか」と質問し、
イエスさまはこの良きサマリヤ人の話をされたのです。
ライングループ➡誰かがするだろうという心理➡良きサマリヤ人
と思考が移ったので、もう一度この聖書の個所を読みました。
私は、ある意味この律法の専門家と同じです。
「先を急いでるから…」「今は忙しい」
「面倒だし関わりたくない…」
「誰か余裕がある人が助けるだろう…」
祭司やレビ人はそのように考えたと思います。
しかし、主はこの例え話を通して
最後に「この3人の中で誰が、
強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と言われました。
「自分にとって誰が隣人か?」を探すのではなく、
「誰が自分を隣人として探しているのか?」
つまり、
探すべき事は「誰が自分の隣人か」ではなく
自分が「誰の隣人になれるか」
イエスさまに会った時…
「あなたは、誰の隣人になったのか?」と問われるんだと思います。
社会・学校・職場・地域など
「誰かがするだろう」と思える事は沢山あります。
それをする事に、時には勇気がいるかもしれません。
しかし、イエスさまはこの例え話の最後にこう言われています。
「あなたも行って同じようにしなさい。」
今日も、自分が ‟誰かの隣人” になれる一日を過ごしたい…と思いました。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)