御国で私たちは問われると思います【ルカ10:36-37】

2025年

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

ルカ10:36-37

今、学校の行事が重なっており、またPTA総会もあり…

いくつもの資料作りに追われています💦

総会の資料では、一年間の行事を記載しないといけません。

保護者サークルの活動日を記載するのに、

そのサークルのグループラインに問いかけました。

「総会の資料作りで、サークルの一年間の活動日を知りたい」

「至急、いつ活動したのか教えて欲しい!」

2日待っても、誰からも返信が入りません…。

もう一度、再送し

「みんな忙しい中、申し訳ないけど、活動日を教えて下さい~!」と送っても

既読はついても返信がない…。

もう一度「ちょっと念の為、聞くけど。私、嫌われてるの?(笑)」と送ると

「ごめーん!(笑) バタバタしてた!」とか

「丁度、ライン読んだ時は外で…忘れてた…💦」と。

そしてやっと、皆が活動日を振り返り調べてくれました。

他のグループでも同じです。

問いかけても、答えてくれる人は大体同じ。

そして何も発言しない人もいます。

多分、その心理はこうだと思います。

「誰かが答えるだろう…」

もちろん、私の中にもこんな考えがあります。

答えてあげたいけど、今忙しくて…

後で…と思いながら忘れたり。

でもまあ、誰か答えるだろう。誰かがするだろう。という思い。

これはライングループだけでなく、

社会の中、学校の中、職場の中にもあると思います。

そんな事を考えていると、

良きサマリヤ人の話を思い出しました。

強盗に襲われた人の横を通り過ぎた

祭司・レビ人・サマリヤ人の話。

この話をされた経緯は、

ある律法の専門家が「永遠のいのち」について質問をしたのです。

そして「私の隣人とは、誰のことですか」と質問し、

イエスさまはこの良きサマリヤ人の話をされたのです。

ライングループ➡誰かがするだろうという心理➡良きサマリヤ人

と思考が移ったので、もう一度この聖書の個所を読みました。

私は、ある意味この律法の専門家と同じです。

「先を急いでるから…」「今は忙しい」

「面倒だし関わりたくない…」

「誰か余裕がある人が助けるだろう…」

祭司やレビ人はそのように考えたと思います。

しかし、主はこの例え話を通して

最後に「この3人の中で誰が、

強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と言われました。

「自分にとって誰が隣人か?」を探すのではなく、

「誰が自分を隣人として探しているのか?」

つまり、

探すべき事は「誰が自分の隣人か」ではなく

自分が「誰の隣人になれるか」

イエスさまに会った時…

「あなたは、誰の隣人になったのか?」と問われるんだと思います。

社会・学校・職場・地域など

「誰かがするだろう」と思える事は沢山あります。

それをする事に、時には勇気がいるかもしれません。

しかし、イエスさまはこの例え話の最後にこう言われています。

「あなたも行って同じようにしなさい。」

今日も、自分が ‟誰かの隣人” になれる一日を過ごしたい…と思いました。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

タイトルとURLをコピーしました