私の主、神よ。まことに、私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けます。私を放り出さないでください。
どうか、彼らが私に仕掛けたわなから、不法を行う者の落とし穴から、私を守ってください。
私が通り過ぎるそのときに、悪者はおのれ自身の網に落ち込みますように。詩篇141:8-10
人の人生は、困難・苦難に囲まれる時間。
喜びを感じる時間。
障害、忘れられない出来事が生じる事もあれば、
記憶にも残らない日常の時間もあります。
全てが織り交ざっての人生…。
自分の人生の時間の中で、一番主と向き合うのはいつだろう?
確実に「困難・苦難」を過ごす時間。
毎日が、幸せで満たされた思いで過ごすならば、
私たちは簡単に主を忘れるのです。
主が居なくても生きていける…。
記憶にも残らない時間を過ごす時、
主をどれ程思い出すだろうか?
生涯忘れることが出来ない程の大きな喜びに包まれたら、
その瞬間、主を思い出し、主の名を崇め感謝するかもしれない。
でもそれも、時間の経過と並行して、私たちは主を忘れる。
もし、生涯忘れることが出来ない程、大きな困難に出遭ったら、
私たちは主に委ねるしか方法がない…。
そこで、正しい祈り、主に喜ばれる祈りを捧げ、
主を少しでも知る事ができれば
大きな困難は、自分の人生の「教訓」として残る。
…結局は、私たちは困難・苦難・問題がなければ、
主を忘れてしまう愚かな存在なんだと思います。
…という事は、私は今、凄く大切な時間を過ごしているという事。
主を求め、主と共に時間を過ごすべき時。
しかし、人間は弱いもの。
自分を苦しめる問題に、心も頭も霊も奪われ
「助けて下さい」
「解決してください」と
問題解決に気持ちが集中する…。苦しいから。
でも神さまの視点からどうなんだろう。
私が苦難の時間は、私の人生の「主を求める時間」
主から見たら、
人が主を思い出し、主と向き合う時間。
問題ではなく主を見て欲しいのです。
イエスさまにとって、最大の苦難の時間は
十字架に架かる時間。
この時、
「父よ。御心なら、この杯を私から取りのけてください。
しかし、私の願いではなく、御心がなりますように。」
と祈られた。
イエスさまも「この杯を私から取りのけてください」
と祈ったのは、問題解決・問題回避を望まれた。
でも「私の願いではなく、御心がなりますように」と祈られている。
イエスさまのこの祈りが、
私たちの苦難・困難時の祈りの型なんだと思います。
自分の人生の苦難の時間は、主の御心を求める時間。
だから、究極の祈りは
「私の願いではなく、主の御心がなりますように」
…でも苦難の時間を過ごす時、
こんな事は思い出せない…
必死に「主よ!助けて下さい!」
「辛くて死にそうです…」
「早く問題解決して下さい‼」
「悪者を成敗して下さい‼」と
時には、相手のある問題の時は、
主の力の介入を祈ってしまう。
力強く、悪を裁くことを望んでしまう。
力強く、私を悪の罠から引き揚げてくれることを望んでしまう。
そして、そうしてくれる事だけが、
問題解決の終止符だと思ってしまう。
だから、主の力の介入が入る事だけが、解決だと思う。
主の力の介入がないと、主は沈黙されていると感じるし
主は私に答えて下さらないと感じる。
主の力による問題解決を、ずっと祈り求めていけば、
それ以外の答えは、受け入れられなくなるし、
それ以外の答えは、答えだと気付かなくなる…。
苦難の時間は、主と向き合う時間。
主を知ってく時間。主を求める時間。
主と過ごす時間。
問題ではなく主を見つめる時間。
「主の御心がなりますように」と祈れるようになる時間。
私も祈ろう…
なんか、私を取り囲む問題は、
私が解決できないって自分で分かっている。
だったらもう、主に委ねるしか方法はない。
委ねるしか方法がないのであれば、
一層の事、主の御心は何なんだろう…と
期待してみよう…。
主は私に何を教えたいんだろうか。
主は私に何を語りたいんだろうか。
主の御心はなんなんだろうか
一度「不安・心配」を手放してみよう。
そして主に「期待」してみよう…。
主の御心が私になるように…。
問題ではなく主を見上げて今日も過ごせますように。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)