誰でもわたしにつまずかない者は幸いです。
マタイ11:6
問題に悩まされ、祈る時って…
「神さま、どうしてですか?」と言う言葉が
多いように思います。
何度も何度も「どうしてですか?」「何故ですか?」
という言葉が口からでます。
この言葉の意味は
「理解が出来ません」
「私は主がされようとする事が納得できません」
だと言う意味だと思います。
いくら考えても、論理的に考えても…
どうしてか分からない。
聖書を見ても「主よ!どうしてですか?」と祈っている場面が多いです。
モーセは、主に出エジプトを命じられたのに、
全てが上手くいかず、民の罪や困難な状況を見て、
「なぜこの民にこんな苦しみをお与えになるのですか?」と問いかけています。
ダビデも何度も、自分の心を注ぎだすように祈っています。
「主よ、なぜあなたは遠く離れて立ち、
悩みの時に隠れておられるのですか。」
ハバククも、世の不正や暴力が放置されているように見える現実に対して
「主よ、いつまで私は叫び求めなければならないのですか。
…なぜあなたは、私に不義を見させるのですか。」
ヨブは自分に降りかかった苦しみに対して、
何度も「なぜ?」と神に問いかけます。
…私たちは、自分の思いや願い、常識などに合わない時、
「どうしてですか?」「何故ですか?」と
問い詰めるように祈ってしまうんだと思います。
今日の御言葉「私につまずかない者は幸いです」
これは、
イエスさまが洗礼者ヨハネの弟子たちに語られたもの。
洗礼者ヨハネは牢に入れられており、
自分が期待していたメシア像(力強く裁きを行う救い主)と、
イエスさまの御業(病人を癒し、貧しい人に福音を伝える)が
違って見えたため、
弟子たちをイエスさまのもとに遣わし、
「来るべき方はあなたですか、
それとも他の方を待つべきでしょうか?」と尋ねました(11:3)。
ここから分かるように、
主は、私たちの考えとは合わないのです。
だから主は「私につまずかない者は幸いです」と言われたのです。
この「つまずく」とは
「心が引っかかり、信じることをやめてしまう」 という意味。
つまり、
「たとえ私の姿が、あなたたちの期待していた
救い主の像と違っていたとしても、
それで信仰を捨てることなく、
私につまずかず、信じ続ける者は本当に幸いだ。」
と言われたんだと思います。
つまり…
主は、私たちが想像する主とは違う。
私たちの想像を超えた方。
私たちの想像を超越しているのです。
私たちは人間の目でしか状況を把握できない。
私たちは人間の頭でしか考える事ができない。
だから私たちは、主がされる事を理解できないのです。
信仰とは、見えないものを信じる事…
つまり、
イエスさまは「主の方法」に信頼し続けるようにと言われている…。
イエスさまの時代の人々も
「力による政治的解放」を望んでいた。
しかし、待望していたイエスさまは、
病人を癒し、罪人を招き、貧しい者に福音を伝える方。
私たちも、力を持って権威を持って
私を困難から救ってくれることを望んでしまう…。
でも、主は私が望む主の姿とは違う…。
主は、この違いにつまずかないで!と言われている。
違いにつまずかず、信じ続けることこそが、
本当の祝福…。
私は今日も、主を信じよう‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)