主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
詩篇105:17
私は聖書の中の人物でヨセフが好きです。
ヨセフはどうして奴隷として売られたんだろう?
主が居られるなら、
兄たちがヨセフを穴に投げ入れた時、
どうして助けなかったんだろう?
丁度その時、イシュマエル人の隊商が通りかかたんだろう?
ヨセフは奴隷としてポティファルの家に売られ、
忠実に仕えて来たのに、
どうして誘惑という罠から主はヨセフを守らなかったんだろう?
主人の妻からの誘惑を拒み続け、
主の前で正しく行動したのに…
どうして冤罪で牢獄にいれられるのを、
主はそのままにされたんだろう?
献酌官は、どうしてヨセフを2年間も忘れたんだろう?
…主がこの世に存在されるのであれば…
どうしてこのような事が起こるんだろう??
主は何をされているんだろう?
主はどうして、沈黙されるんだろう?
主は、何を思われているんだろう?
私たちの人生にもヨセフほどでなくても
理不尽な事が起こります。
主がおられるなら、
どうして助けてくれないんだろう??と思う事があります。
主はこの世界で主権を持っておられるはずなのに…。
ヨセフの兄たちは、ヨセフを憎み、嫉妬し奴隷として売りました。
私たちの目にはその様に映る。
しかし主は、それを主は益として下さるのです。
悪を働いた兄たちをも救う為に、
ヨセフを用いられたのです。
主は、不思議な方法を用いられる…。
大きな悪を働いたんだから、滅びても仕方ないと私たちは思ってしまいます。
しかし、主はそのような兄たちにも計画を持たれている。
であるならば、どこかヨセフが可哀相。
兄たちを救う為に、ヨセフは苦労に苦労を重ねた人生を強いられたのだから。
しかし、創世記には何度か
「しかし、主はヨセフとともにおられ…」という御言葉があります。
私たちの目に「主の不在」「主の沈黙」と見えても、
その様に感じたとしても…
主は共におられるのです‼
ヨセフは、奴隷として13年。
エジプトの総理大臣になって9年目に兄たちと再会しています。
外国に売られ22年も経って、
主の計画が成就したのです。
そして聖書の始めの書に名前が記録される人物となったのです。
聖書を見ると創世記39章には
主が見られているヨセフ像があります。
「
主はヨセフと共におられたので、
「幸運な人」(39:2)
「主は彼のすることを全て成功させられた。」(39:3)
「彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)
聖書が紹介するヨセフは
「幸運な人」「良い時も悪い時も、主と共に居る人」
ヨセフは多分…
もう一度人生を歩めるとしても、
自分の歩んだ人生を選ぶのではないか…?と私は思います。
ヨセフは兄たちにこの様に言っています。
「あなたがたが私をここに売ったことを、悔やんだり怒ったりしないでください。神が命を救うために、あなたがたより先に私を遣わされたのです。」(45:5)
「それで今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく神です。」(45:8)
…これは自分の置かれた状況や理不尽な出来事に
人生を諦めず、最後まで主を信じ主と共に歩んだから
言える言葉だと思います。
…自分の目に、自分の人生がどう映ろうと…
私は主を信じよう!
私は、今日も主を信じ、主と共に過ごそう‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)