キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。ピリピ2:6-8
先日、スーパーに行った時、小さな赤ちゃんを連れたママさんがいました。
ベビーカーに乗った赤ちゃん。
泣いていました。
ママさんは「どうしたのー?」と
低姿勢をとって、赤ちゃんに語り掛けていました。
その姿を見て、
よく見る光景だけど…
どうしてママさんは姿勢を低くするんだろう…?と思ったのです。
姿勢を低くしないで
立ったまま「どうしたのー?」と言っている親はあまり見たことがない。
そんな事を考えてると、
あ…赤ちゃんの目線に合わせているのか!と思ったのです。
目線が合わない高い所から、話しかけるのではなく、
無理な姿勢であっても、目線を赤ちゃんの位置に合わせる…
そっか、ママさんパパさんが、
低姿勢で赤ちゃんに話しかけているのは、
赤ちゃんの事を愛してるからなんだ~と思ったのです。
そう思うと、
あ!なるほど‼ と思ったのです。
イエスさまは、この世に生まれなくても、
人間の身体をもたなくても、
人間の特性や思考パターン。理解力など
全てをご存知です。
しかし、わざわざ、人としてこの世に来られたのです。
私たちと同じ目線になられる為だったんだ…
私たちを愛しているから、
わざわざ、人間の姿をとられたんだ…と思うと
1つの話を思い出しました。
多分、アメリカの牧師のメッセージだったと思うのですが、
牧師先生が、違う宗教の地位ある方々と話した時、
他の宗教の方が、
「私たちは、違う宗教を持っているが、同じ山を登っているようなもの」
「どの道(宗教)で登っても、同じ(または似たような)救いの頂上に着くのだから、どの宗教でも同じ」
と、同意を求められたそうです。
その時に、牧師先生は、
「確かに、多くの宗教は山登りに例えられている。
宗教により道は違ったとしても、その道を上り詰める事により、
救いに到着する事が出来ると例えられている。
でも、キリスト教は違う。
私たちの神は、私たちに努力してここまで登って来いとは言われない。
私たちの神は、神の方から私たちの方に降りて来られる神である…」
…というメッセージを思い出したのです。
神さまの方から、私たちの目線に立たれたのです。
イエスさまが人として生まれたというのは、
私たちを愛している証拠‼
改めて、人として来て下さった主に感謝。
そして、自然と姿勢を低くして、
赤ちゃんに話しかけるママさんの姿を見て
私たちは主の姿に似せて造られたんだな~とも思いました。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお主の似姿に似せて造られた祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)