主の似姿に似せて造られた私たち【ピリピ2:6-8】

2025年

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。

ピリピ2:6-8

先日、スーパーに行った時、小さな赤ちゃんを連れたママさんがいました。

ベビーカーに乗った赤ちゃん。

泣いていました。

ママさんは「どうしたのー?」と

低姿勢をとって、赤ちゃんに語り掛けていました。

その姿を見て、

よく見る光景だけど…

どうしてママさんは姿勢を低くするんだろう…?と思ったのです。

姿勢を低くしないで

立ったまま「どうしたのー?」と言っている親はあまり見たことがない。

そんな事を考えてると、

あ…赤ちゃんの目線に合わせているのか!と思ったのです。

目線が合わない高い所から、話しかけるのではなく、

無理な姿勢であっても、目線を赤ちゃんの位置に合わせる…

そっか、ママさんパパさんが、

低姿勢で赤ちゃんに話しかけているのは、

赤ちゃんの事を愛してるからなんだ~と思ったのです。

そう思うと、

あ!なるほど‼ と思ったのです。

イエスさまは、この世に生まれなくても、

人間の身体をもたなくても、

人間の特性や思考パターン。理解力など

全てをご存知です。

しかし、わざわざ、人としてこの世に来られたのです。

私たちと同じ目線になられる為だったんだ…

私たちを愛しているから、

わざわざ、人間の姿をとられたんだ…と思うと

1つの話を思い出しました。

多分、アメリカの牧師のメッセージだったと思うのですが、

牧師先生が、違う宗教の地位ある方々と話した時、

他の宗教の方が、

「私たちは、違う宗教を持っているが、同じ山を登っているようなもの」

「どの道(宗教)で登っても、同じ(または似たような)救いの頂上に着くのだから、どの宗教でも同じ」

と、同意を求められたそうです。

その時に、牧師先生は、

「確かに、多くの宗教は山登りに例えられている。

宗教により道は違ったとしても、その道を上り詰める事により、

救いに到着する事が出来ると例えられている。

でも、キリスト教は違う。

私たちの神は、私たちに努力してここまで登って来いとは言われない。

私たちの神は、神の方から私たちの方に降りて来られる神である…」

…というメッセージを思い出したのです。

神さまの方から、私たちの目線に立たれたのです。

イエスさまが人として生まれたというのは、

私たちを愛している証拠‼

改めて、人として来て下さった主に感謝。

そして、自然と姿勢を低くして、

赤ちゃんに話しかけるママさんの姿を見て

私たちは主の姿に似せて造られたんだな~とも思いました。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお主の似姿に似せて造られた祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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