自分を正当化してしまう習慣【箴言3:5-6】

2024年

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

箴言3:5-6

知り合いの男性が、私にこんな質問をしました。

「再婚しようと思うんだけど… これって罪にならない?」と。

こう聞かれた時に、ドキッとしました。

このAさんが、聞きたいと思っている答え。

私にどう答えて欲しいと思っているのか

分かるからです。

Aさんの心の中に、引っ掛かりがあり、

その引っ掛かりを、私に外してほしいと願っているのです。

私が「大丈夫だよ!」と言えば、

Aさんの心の引っ掛かりは取り去られ、

自分の願う通り、前を向いて歩めるのです。

新しい人生を歩むのに、

後ろめたさや不安などを書き捨て、後押しが欲しいのです。

自分が今していること、しようとする事において

「正当性」が欲しいのです。

安心が欲しいのです。

…そう思ったら、私もAさんと同じです。

「これは大丈夫だろうか?」

「私はこれを選んで良いのだろうか?」

「これって罪にならないんだろうか?」

「主は私を見てどう思われているんだろうか…?」

そのように、何となく心に引っ掛かりを覚える時があります。

誰かに「大丈夫だよ」と言ってもらいたい。

安心したい… 平安が欲しい…

でもよくよく考えたら、

誰かに「大丈夫だよ」と言われたからと言って、

それが100%大丈夫だという保証にはならない…

「大丈夫だろうか…」という心配がある時点で、

大丈夫じゃない可能性が高いように思うのです。

私たちはいつも自分の「正当性」を持とうとします。

〇〇だから大丈夫。

だって〇〇だから、仕方がない。

流石にこれは主も良しとされるだろう…

自分の中に正当性を持とうとすること自体…

正当ではない可能性が高いように思います。

もし私がAさんに「大丈夫!」といったら、

Aさんは不安から解放され、前進するかもしれません。

しかし、神でない私の「大丈夫(罪にならない)」という言葉は、

何の保証にもならず、

万一、再婚生活の中で問題が生じたら、

また以前と同じように「この再婚は主が赦されていたんだろうか?」という

思いが生じるのです。

正当でない正当性は、本当の安心にはならない…

私たちの本当の平安、本当の安心は

主から来るもの。

主からのみ与えられるもの。

しかし、簡単に人から得ようとしたり、

自分の思考や論理に頼ってしまっているかも…

自分は大丈夫だと正当化してしまう習慣。

自分を正当化しようとする時、

立ち止まり、主を見上げるようになりたい…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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