たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです
詩篇28:15
最近、主との関係はどうですか?
良好!と答えるより、
んーイマイチ…と答える時の方が多くないですか?
私たちの信仰はどうして、
上がったり下がったりするのでしょうか。
私たちの信仰は、どういった時に揺らぐのでしょうか。
多くの人は、問題が生じた時に信仰が揺らぐと思います。
どうしてこんな問題が生じたんだろう
祈っても、答えが分からない。
主を感じない。
主が沈黙されている様に感じる事があります。
そうなると、疑問が生じるのです。
問題が生じたことに意味はあるんだろうか?
そして、もっと時間が過ぎると、
主は本当にいらっしゃるんだろうか?と思い始めるのです。
主は私たちと共におられる…ハズなのに…
全くそう感じないのです。
祈っても祈っても、沈黙される主に疑問を感じるのです。
「あなたは本当に、いつも私と共に居て下さっているのでしょうか?」
…私も信仰を持ってから、何度もこのような思いを感じました。
今、自分の信仰生活を振り返って見て感じることは、
主が共にいるかどうかの基準が、
自分中心だったという事です。
自分が主を感じるかどうかで、
主が共にいてくれるかどうかを感じているです。
もっとストレートに表現すると、
私が呼んだ時に答えてくれるかどうかで、
主が共に居られるかどうかを決めているのです。
そして「主が私たちと共にいる」という言葉。
どことなく、私には自分を守ってくれてるSPのようなイメージを持っていたように思います。
主が共に居り、私を守ってくれる…
主が共に居り、私を導いてくれる…
主と共に歩む人生も…私は自分が中心なのです。
主と共に生きるとは、
主導権は主にあるのです。
主が行かれる方向に、私たちがついて行くものだと思います。
主が望まれている事を、私たちも選択するべきだと思います。
私は、どこまでも自己中な気がします。
私が呼んで答えないと、主を疑い…
自分に主導権があるような思いをもって、
信仰生活を送っているのです。
主は、私たちがどう感じようと、今も生きておられるのです。
そして、私たちと共におられるのです。
信仰は、自己中心ではなく、神中心であるべき…
今日は、自己中心的な信仰を悔い改めようと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)